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遠藤貞一

遠藤貞一(郎) [1841-1888]
徳山藩医遠藤春岱の長男。母は徳山藩士松岡玄知崇娘光子。
名は良弼、希一、蕃衛、儀右衛門、孝蔵、白井貞一郎、号は培園。
天保12年(1841)6月2日徳山に生まれる。弘化4年(1847)祖父松岡玄知に四書の素読を習い、嘉永6年(1853)興譲館に入る。安政5年(1858)肥後熊本にて町野玄粛に医学を、木下犀潭に儒学を学ぶ。また、日向、薩摩を遊歴し諸士と交わる。
文久元年(1861)江戸萩宗藩桜田屋敷の有備館に学ぶかたわら、儒者安井息軒の門に入る。
文久2年(1862)、信田作太夫とともに勅使姉小路公知を護衛して江戸に下る。その際、より尊王攘夷の志を燃やし、家業の医師の道より藩政に参与することになる。
同年、高杉晋作らによる品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件に加わる。
翌年6月毛利元蕃より医業を解かれ平士として三人扶持を給し、世子元功の近侍、蔵本両人役を勤める。
藩内においても俗論派に対抗、尊攘運動にくれる。元治元年(1864)禁門の変の時は江戸にあり、江戸在住の長州藩士は全員幽囚され、貞一は徳山藩親戚藩にあたる新見藩邸に幽閉された。慶応2年(1866)釈放され帰国、元蕃近侍となり参政、新しくできた練兵塾改め献功堂の堂長となる。
明治2年(1869)英国に遊学、翌年には帰国し正権大参事、明治4年(1871)、士族授産により、改組された新たな徳山村「制産社」の社長となる。明治11年(1878)内務省出仕。帰郷後、大津郡郡長、赤間関区長を勤める。明治18年(1885)病気の為辞職。同21年(1888)東京で療養中、6月15日赤坂病院で没した。東京青山墓地に葬られた。享年48。

児玉源太郎が「貞一郎先生」に宛てた書状
遠藤貞一郎宛児玉源太郎書状周南市立中央図書館蔵

『児玉源太郎書簡を読む 1』 徳山地方郷土史研究25号 古文書解読会

『児玉源太郎書簡を読む 2』 徳山地方郷土史研究26号 古文書解読会


公開日:
最終更新日:2024/05/02

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