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松岡玄知

松岡龍窟玄知 [  -1858]
諱崇 初幸八 假名玄知 玄孝 山崇 天然 龍窟
100石馬廻
寛政8年(1796)兄常忠死去につき家督

八代藩主毛利広鎮の代、藩内の医師が多数他国へ出て修業するため、医療体制の不足を憂慮した藩は、その対策として文政6年(1823)12月10日、鳴鳳館内に医学館を並置し、玄知を医学取立方に任命した。ここに初めて藩校としての医学教育機関がもたれたのである。萩本藩に先立つこと実に17年である。[徳山市史 上]

安政2年(1855)隠居、同時に御雇勤(三人扶持)仰せつけられる。安政3年(1856)、城内で杖の使用を許される。銀多々拝領。
門人は多数、文学を好み詩や書も善くした。居を松風館と称した。

父玄仲も医師『増補周防記』『徳山名所巡』の著書がある。文化13年(1816)8月3日卒。
妻は飯田正輔妹、文化5年(1808)娶る。安政4年(1857)5月16日卒。
娘光子は天保3年(1832)徳山藩近代医学の祖遠藤春岱に嫁いだ。その長男遠藤貞一、二男守一。守一は安政5年(1858)松岡敬の家督を継ぐ。松岡緄。変名久我四郎。奇兵隊、山崎隊に属した。陸軍歩兵少佐。従六位。明治13年7月15日37歳で死去。墓碑は遠藤家墓所。

玄知、安政5年(1858)11月26日卒 享年77。金剛寺。

松岡龍窟

 

 


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最終更新日:2024/04/14

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