毛利徳山藩
中世の徳山は今の市街地にあたる地域に野上庄があり、それに近接して東に遠石庄と久米保、西に富田保・平野保・戸田令保などがあった。大内氏の勢力が盛んとなるに従って、その権臣陶氏がこの地方一帯を風靡し、野上庄もまた陶氏の重臣野上氏の領有するところとなったが、弘治元年(1555)10月、陶晴賢は厳島において毛利元就のために誅せられ、同3年、元就は進んで周防・長門の両国を平定した。ここにおいて陶氏及び野上氏は共に滅亡し、杉氏が代わって野上庄を支配することになったのである。
近世初頭の徳山の地は、まだ野上庄あるいは野上村と呼ばれていた。中世の庄園的集落としての野上庄は、山陽街道に沿った宿場として、かつまた海に面して船泊まりや運漕の便があり、魚塩の利をも占めて、徐々に田園的小都市として発達に向かいつつあった。天正17年(1589)に杉元宣が横死し、ついでその子孫の没落したことは、この地域の発展に暗雲を投じたが、元和3年(1617)毛利輝元は次子就隆に、都濃郡において高三万石の地を分地した。就隆ははじめ居館を下松の地に設けたが、慶安3年(1650)野上に移転して地名を徳山と改め、その城下町を経営するに及んで、近世徳山の発展が約束されたのである。 (徳山市史)
徳山藩誕生してから360余年、第十四代当主毛利就慶氏まで脈々と引き継がれてきた毛利家。ここに徳山の礎を築いた毛利家を顕彰するとともに、初代藩主就隆より、最後の藩主九代元蕃までの忘れてはならない徳山藩のものがたりを追ってみたい。
誰にも父がいて、母がいて、祖父母がいて・・・すべての人たちに先祖があり、先祖に何らかの影響を受けながら、ひとりひとり、尊い人生を歩んできた。平和な平成の世に生きる我々もまた、歴史に足跡を残しながら同じ道を歩んでいく。
毛利家と同様、どの家系にも尊い歴史と伝統がある。毛利徳山藩のウェブサイトをとおして、我が家のルーツに目を向け、先祖に感謝し、伝統を守り、次世代につないでいくお役にたつことがあれば、この上ない喜びである。
そして現在の徳山を今一度振り返り、この町を見直す機会となれば幸いである。
2013.11<素浪人>
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最終更新日:2024/03/13