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第九代藩主 毛利元蕃

九代・毛利元蕃像

徳山毛利家蔵・周南市美術博物館寄託

第九代藩主 毛利元蕃 <1816 – 1884>

第八代藩主広鎮の七男である。文化13年(1816)7月25日、江戸の今井谷邸に生れ、幼名を徳太郎といった。文政6年(1823)11月16日就軌と称し、天保7年(1836)6月15日に広篤と改め、同年12月16日に従五位下に叙し、山城守に任じた。翌8年12月7日、家督を相続し、同14年11月23日に淡路守に任じ、安政3年(1856)12月28日に元蕃と改名した。

兄の元琦は宗藩の老臣堅田就正の養子となり、同元僴は宇部の福原家を相続、弟の元徳は宗藩主敬親の養嗣子となった。また出羽山形藩四代藩主から上野館林藩初代藩主になった秋元志朝も弟である。従って宗家との関係は極めて密接で、幕末多事のときに敬親と志を同じくし共に国事に尽くした。

元蕃は文武の奨励、興隆に努め、民政に尽くした。元蕃は書を市川米庵に学び、剣を齋藤弥九郎にうけた。嘉永3年(1850)8月の未曽有の風水害に際しては、あまねく封内の諸村を巡視して庶民の疾苦を慰め、老人をいたわり、孝子や篤農家を賞した。「省耕集」はこの時の詩文を集めて出版したものである。早くから意を文武の振興に用い、しばしば学館に臨んで子弟を奨励し、特に学力に優れ、武芸に秀でたものは毎年人員を定めて、藩費を以て他藩に遊学を命じた。嘉永6年ペリー来航以来、国事は急に繁忙をきわめたが、元蕃は宗家と共に相州浦賀の警備に任じ、その後、大小の国事に宗家の羽翼となって進退を共にした。幕末の風雲を乗り越え、明治2年(1869)6月2日、鳥羽伏見の戦いの戦功にて、徳山藩は朝廷より永世賞典禄8000石を賜った。版籍奉還の後、同4年5月15日徳山藩知事を辞し、徳山藩を廃して宗家の山口藩に合併を請願、朝廷はこれを許可、徳山藩は廃藩置県の発令に先立つこと一か月にして有終の美を告げたのである。同年9月2日、家督を元功に譲り、居を東京芝愛宕町五番地に移して余生をここに送ったが明治17年(1884)7月22日、69歳をもって逝去した。従三位に叙せられる。岐陽、恪庵、随風堂などの号があり、「省耕集」「随風集」「随風堂遺稿」などの著述を残した。(徳山市史上)


公開日:
最終更新日:2021/02/10

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