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児玉神社と児玉源太郎の遺蹟

明治期の陸軍の巨星 児玉源太郎

                      小川 宣

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月15日、徳山藩士兒玉半九郎の長男として生まれる。父は源太郎の幼少の頃、不慮の死を遂げたので、姉久子が徳山藩士浅見家から次郎彦を養子に迎え児玉家の家督を継いだ。源太郎は藩校興譲館に学び、次郎彦の薫陶を受け、機知に富み大胆にして果断、悠揚迫らざる雅量を有していたという。

正義派に属していた義兄次郎彦が、俗論派の為に児玉家の玄関先で暗殺され、一時家名断絶となり源太郎は浪人になったが、やがて藩論が回復して正義派の世となったので、旧に復し新たに屋敷を与えられた。(現在の児玉神社)

17歳の時、幕府の残党を追って蝦夷地に進撃した折には、徳山藩の献功隊の半隊司令として各地に転戦して功労があった。その後、陸軍に入り明治5年(1872)に大尉に昇進している。ついで佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角を現し、軍略・政略に優れた知将として認められるようになった。

日清戦争では大本営参謀として活躍し、日露戦争においては満州軍総参謀長として大山巌総司令官を補佐し、二百三高地の攻防戦に勝利を収め、ロシア軍を圧倒し奉天の戦いに大勝を博した。

日本陸軍のドイツ軍制の採用にともない、ドイツよりメッケル少佐を招いて軍隊制度の近代化を進めるなど、また陸軍大学校長として将校の教育に力を注いだ。さらに第四次伊藤内閣・第一次桂内閣で陸軍大臣をはじめ、一時は内務大臣・文部大臣を兼任するなど、政治家としても活躍した。その後は参謀本部次長に就任し、参謀総長の大山巌から絶大な信頼を得て、辣腕をふるった。

台湾総督在任中には、後藤新平・新渡戸稲造らとともに衛生環境の改善、インフラや交通網の整備、農業の振興などに取り組み近代化を推進し、台湾近代化の基礎を築いた。

日露戦争後は、陸軍参謀総長、南満州鉄道株式会社創立委員長として多忙な毎日を送っていたが、明治39年(1906)7月24日脳溢血のため55歳で急逝した。

源太郎のふるさと徳山には、児玉家と源太郎ゆかりの遺跡が数多く残されている。17歳までふるさと徳山で過ごした源太郎は、常にふるさと徳山に思いを馳せ、児玉文庫を設立するなど故郷の青少年の育成に努めている。また源太郎の高潔な仁徳を称える人々によって児玉家ゆかりの遺蹟も含めて大切にされている。

地名としては児玉町と児玉公園があり、生誕地(岐山通)には「児玉家屋敷跡」の石碑と源太郎産湯の井戸がある。また遺髪塔が隠居山墓地の児玉家墓所に建立されていて、その遺徳を偲ぶ、よすがとなっている。位牌は菩提寺である興元寺の位牌堂に納められている。

幕末動乱の時に、俗論派によって取り上げられた生家は、その後源太郎自身の手によって買い戻され、その屋敷に明治36年(1903)「児玉文庫」が開設された。この文庫は近代図書館の先駆けを為すもので、海外からも称賛されるほどの快挙であった。今もその当時の児玉文庫の表札と貸出本と貸出箱が周南市中央図書館に大切に保存されている。

一方、源太郎の生誕地の産湯の井戸の傍らに、児玉源太郎文庫開設百周年を記念して、平成15年(2003)11月3日に有志によって記念碑が建立された。産湯の井戸の周辺にはこの地で非業の最期を遂げた源太郎の義兄次郎彦の石碑などが建立されている。

児玉神社は、江の島の児玉神社の建物の一部を譲り受け、徳山町の有志によって旧児玉将軍屋敷跡に建立されたものである。大正11年(1922)12月15日に鎮座祭が執行され、昭和8年(1933)5月16日に県社に昇格した。

源太郎は国内だけでなく、当時の植民地台湾でも台湾に在住した日本人ばかりでなく、台湾の人々からも尊敬されていた。徳山に児玉神社が創建された時には、大正14年(1925)に台湾の有志から「たいわんごよう」の松の木が贈られた。今も神社の西側に立派に育っている。この木は日本でも大変珍しいという。

また平成20年(2008)には、児玉源太郎を大変尊敬しているという台湾の前総統李登輝氏から巨大な石碑が神社に寄進された。4メートルもある立派なもので、「児玉源太郎先生 浩氣長存 李登輝」と記され、境内に建立されている。さらに最近の台湾人の書物の中に、植民地の台湾に触れて、「…台湾の近代化のためには後藤新平が尽力したが、その後ろには児玉源太郎がいて、後藤に辣腕を振るわせた…」と記している。

     小川宣著 『私の城下町 心に残るゆかりの人々』より

<まるごと周南 2009.12月号 児玉源太郎・前編>
<まるごと周南 2010.01月号 児玉源太郎・後編>

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<児玉源太郎像> 周南市桜馬場通 児玉公園

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<児玉文庫開設百年記念モニュメント>  周南市岐山通

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<児玉源太郎産湯の井戸>  周南市岐山通

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<児玉源太郎義兄次郎彦石碑>  周南市岐山通

児玉神社

大正11年(1922)12月15日、当時の徳山町の前田蕃穂外52名の有志が「県社児玉神社創立許可願」を内務大臣に提出した。

その願書には「児玉源太郎は…日清戦争に功あり。明治31年には台湾総督となり、政治を刷新して教化を進めて交通産業の発展に寄与した。その間陸軍大臣を、さらに内務・文部両大臣を兼任し、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大で、等しく満天下の認めるところである。この地に児玉神社を建設し、国家守護の神として、その遺徳を後世に伝え、人心の感化に資し、もって国民道徳の標的にしたい。…」と記されている。

翌12年8月14日に許可され、「児玉将軍屋敷跡」に流造の本殿と拝殿が創建され、昭和8年5月16日に県社に列せられた。拝殿の「児玉神社」の掲額は、児玉源太郎の長男秀雄の揮毫で、毎年3月10日に例祭が行われている。

(周南市教育委員会)

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<児玉神社>  周南市児玉町

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<タイワンゴヨウ(マツ科)>  児玉神社前

大正14年(1925)に樹高約2メートルの幼木数本が台湾から取り寄せられ児玉神社に植えられた。昭和37年(1962)の都市計画の時、伐採の話しが起こったが、そのまま残すことになり、二車線の片側を占領することとなった。このタイワンゴヨウは日本に植樹された記録はなく、マツ属の研究の上で、このように熟成した巨木の存在は学術的に貴重なものである。

児玉神社石碑参照


公開日:
最終更新日:2021/02/11

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