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浅見栄三郎

浅見栄三郎 [1798-1882]
諱は正欽、自省斎と号した。徳山藩士書道の大家浅見巣雲の弟。
役藍泉長沼采石に師事、武芸は唯心一刀流剣術の師範で達人といわれた。また、詩文にも秀でていた。

寛政10年(1798)浅見正辰の三男として生まれる。同じく徳山藩士の浅見正保の娘常と結婚し、婿養子となり、文政8年(1825)正保の家督を継いだ。

文政2年(1819)2月、一刀流剣術指南役棟居順平景邦の心添えとして藩校鳴鳳館に出勤を命じられ、同年12月学館常居生句読授方となった。文政4年(1821)から八代藩主毛利広鎮子息、寛之進、俶之進、雍五郎、徴之助(後の福原元僴)に剣術の稽古をつけた。文政10年(1827)に江戸番手として江戸に上り、天保2年(1831)に帰国したが、天保4年(1833)再び江戸で藩の納戸都合役を勤めた。その後帰国して御朱銀検使役、御船手都合役、一刀流師範役などを歴任する。

元治元年(1864)禁門の変の後に徳山藩内で恭順派(俗論派)が政権を握り、同年8月に児玉家に養子に入った二男の次郎彦(児玉源太郎義兄)が自宅で暗殺された。また、長男の安之丞本城清信田作太夫と共に捕縛、浜崎の獄に入れられ、翌年1月殺害された。栄三郎も連座して蟄居を命じられた。

その後、慶応元年(1865)恭順派(俗論派)が失脚し、攘夷派(正義派)が復活すると、藩主毛利元蕃は殉難七士の家を復興し、その遺族を厚遇、栄三郎は再び一刀流師範に任じられた。

廃藩後は自宅に子弟を集め、教育に尽くし、明治15年(1882)12月15日、85歳で没した。墓は周南市興元寺。


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最終更新日:2024/04/28

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