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鳴鳳館第三代教授 長沼采石

<安永4年(1775) ― 天保5年(1834)7月14日 享年60歳>

文化6年(1809)9月、役藍泉没後、選ばれて第三代教授となる。名は簡、通称を文次郎といった。享和元年(1801)に江戸に遊学して昌平校に入ったが、間もなく肥後に赴き、高木紫溟の門に遊んだ。紫溟は熊本時習館の教授で、皇典学が同地に興ったのはこの人の影響である。和歌、和文にも長じ、村田春海、加藤千蔭、本居宣長らとも親交があり、その学は朱子学を主とした。翌2年、喪にあっていったん徳山に帰り、除服して学館訓導となった。明年また紫溟の門に入り、帰藩の後、文化4年(1807)に御蔵本両人役となり、同7年12月に兼ねて学館の助教役を拝し同10年7月に教授役座取計、文政3年(1820)7月に教授役に進んだ。その後更に評定役に抜擢された。天保4年(1833)に評定役を免ぜられ、専ら教授のことにつとめたが、なお事ある時は必ずその義に参じた。翌5年、60歳をもって卒した。

采石の学は徂徠学を主としたが、晩年に至って朱子学に転向しようとした。しかし時勢はなお徂徠学を尊び、采石を指して「陰朱陽物」とののしった。采石はこれを意に介せず、むしろますます徂徠学から遠ざかろうとする傾向がみえたのは、あきらかに高木紫溟の影響である。元来、時習館の学統はその源流である秋山玉山以来、朱子学を主としながらも、徂徠学の文芸趣味を加味したところにその特色があったのである。この傾向は徳山藩でもすでに藍泉の意見の中に窺われたが、采石の学風からますますこれを助長せられ、やがて朱子学が藩内を風靡するに至る先駆をなしたのである。

采石の時代には肥後藩の武芸が盛んであった影響もあってか、武芸の業家には人材が乏しくなかった。山県蔵太は無方流の剣槍を教え、古志小源太は無念流の剣術を授け、そのほかにも、松岡教二郎、渡辺端、棟居順平、梅地喜真太らの武芸家がいた。また、鳴鳳館で医学教育を始めたのも采石の時代で、これは徳山藩学の上に特筆すべき事柄である。 (徳山市史上)


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