浅見安之丞
浅見安之丞 [1833-1865] 殉難七士のひとり
天保4年(1833)10月15日に徳山藩士の浅見栄三郎と常の間に長男として生まれた。諱は正虔、通称虔之輔、後、安之丞。号など伯恭、烟渓、煙渓等を名乗った。
幼いころより文武ともに優れ、安政元年(1854)に興譲館の訓導役となり、大島流槍術の指南役も勤めた。また文久元年(1861)には藩主に従って江戸に赴き、同3年(1863)3月御親兵に選ばれ、堺町御門の警衛にあたり、石清水八幡宮行幸の際には、攘夷派の公家である三条西季知の警護にあたった。7月周旋方になり尊攘運動に奔走。「八月十八日の政変」が起こると、ただちに帰国してこれを報じ、その後は世子元功の学業指導を命じられ、元治元年(1864)7月学館の訓導役に転じた。同19日禁門の変以降、徳山藩内では恭順派(俗論派)が台頭、勤王正義派は弾圧され、8月、安之丞は本城清、信田作太夫とともに浜崎の獄につながれ、慶応元年正月14日に恭順派(俗論派)によって新宮の浜に誘い出され殺害された。安之丞、時に33歳であった。
明治21年靖国神社合祀。同31年贈従四位。
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最終更新日:2024/04/23