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福間家について(その2)

公開日: : 最終更新日:2014/09/23 素浪人 混迷の日々

福間家についてもう少し詳しく紹介しようと思う。

福間氏の祖は因幡の福万荘に住み、代々山名氏の一族であるとともに家臣でもあった。後光厳帝(1352-1371)の時代、山名伊豆守時氏の家臣に福間三郎の名前がみえる。武勇伝が数々残されている。その三郎から延々と福間家は繁栄していくのだが、毛利元就公の時代、福間彦右衛門元明が家臣となる。武功は数えきれないが、特に有名なのは尼子の猛将山中鹿之助の首を取ったことである。が、豊後の大友と毛利家が戦ったとき、豊前大里の浜にて戦死した。天正14年(1586)のことである。その元明の子、淡路守元道は毛利輝元公に仕えたが、実に輝元公の二男、後の徳山藩初代藩主就隆公の守役に抜擢されたのである。その後の福間家の系譜は昨日、このブログで紹介したとおりである。

福間元明が山中鹿之助を討ち取った時、首にかけていた大海の茶入及び匕首(あいくち)は現在も福間家に現存している。また、太刀は毛利家に、甲(かぶと)は吉川家に譲られたと聞く。また、余談として戦前、山中鹿之助の子孫である財閥鴻池は茶入及び匕首の件を聞きつけ、福間家に金に糸目を付けず執拗に譲渡を迫ったが、当時の福間家当主は満州転勤の際、失ったと伝え、今日、公開するまで秘密にしていたそうである。

幕末においては二男(隆治)系第9代福間青梅(舜欽)が鳴鳳館教授から引き続き、興譲館初代教授となった。そして、その子駒太(敏輔)は徳山藩9代藩主毛利元蕃公の出した『正義堂神告祭文』に対して求められた『徳山藩有志血盟書』に血判し、正義派として活躍した。維新後も興譲館を前身とした岐陽小学校(明治5年設立)建設等に尽力、死後、小学校の校長、児童代表は毎年命日に駒太の墓参りを続けたという。

福間家の歴史を語ると、とてもこのブログでは収まりきれず、また、このブログで語るにはもったいなく、誠にそれも失礼千万な事であるが、後日、改めて論文あるいは報文という形で発表させて頂けることがあれば光栄である。最後に、今回お会いした福間壌(ゆたか)氏と徳山毛利家12代の二男、毛利就圀氏のお話の中からエピソードをひとつ紹介する。

壌氏の祖母は福間キワ氏である。キワさんと呼ばせて頂く。キワさんは明治17年(1884)に生れ、徳山小学校を出て毛利家に勤める。特に徳山毛利家第11代当主元秀公の室庸子(つねこ・伯爵南部利恭長女)様に可愛がられ、キワさんも毛利家のために誠心誠意尽くされたと聞く。その後、キワさん一家は屋敷を処分し、朝鮮の燃料廠関連の会社に転勤するが、戦後、再び一家で帰国することになった。その折、キワさんは家族を離れ、ただ一人、再び毛利家の門を訪れる。アポなしである。毛利家はこれを快く迎えられ、キワさんは戦後の混乱期を無事毛利家で過ごされた。その後、二男の襄(のぼる)氏宅に移るのであるが、この話を壌氏がされると、毛利就圀氏はキワさんのことをよく覚えていると話され、壌氏他一同、感激したのである。キワさんは昭和32年(1957)府中の襄氏宅にて亡くなられた。時に73歳であった。

IMG_6934 - コピー左から二人目(後列)福間キワ氏  右から三人目(前列)毛利庸子様

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左 福間壌氏  右 毛利就圀氏

次回は今回の会食時の模様をお伝えしたいと思います。

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