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飯田厚蔵

飯田厚蔵 [1829-1880]
徳山藩士。初端、次平九郎、後厚蔵、字厚卿、号春瀬。
文政12年(1829)徳山藩士黒川範三郎光武の二男、安政7年(1860)徳山藩士150石馬廻格飯田与兵衛以直跡家督。
学館鳴鳳館に学んだ。江戸に出て大橋訥庵の思誠塾に入門した。その後、備後国福山の儒者江木鰐水の塾に遊学して塾長に進む。帰国して西洋砲術世話方、郡代、評定役などを歴任。また、詩文に優れ、後、敵対することになる本城清江村彦之進らと「瀟洒会」でともに励んだ。漢学者でもあった。
元治元年(1864)7月禁門の変後、藩内に正義俗論二派の抗争が起こった。厚蔵は井上快雪、富山源次郎らと組んで国政を握る。俗論と称される幕府への純一恭順路線を探り、武備恭順を主張する正義派志士を排斥した。
慶応元年(1864)3月高杉晋作らの内乱によって萩宗藩は正義を回復、藩政を改革すると同時に、徳山藩に対しても国論統一、俗論追放を迫った。毛利元蕃徳山藩主の「正義堂神告祭文」により「徳山藩有志血盟書」が作成され、「俗論を主張する者は死せん」とする230名が血判し正義派が主権を取り返した。それにより厚蔵は他の俗論派同志とともに萩の沖、見島に流された。
明治4年(1871)廃藩によって放免され、徳山で家塾を開いた。
同9年(1876)前原一誠による萩の乱が起こると、徳山の同志数十人と結んで呼応し、花岡警察署等を襲撃したが、同警察署、徳山分署の警察吏に鎮圧され捕らえられた。大阪監獄で懲役7年の刑に服す。明治13年(1880)6月20日病んで獄中にて死去。享年52。本正寺に葬られた。

『徳山藩士飯田厚蔵の書簡を読む』徳山地方郷土史研究8号 岩本勝

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公開日:
最終更新日:2024/05/01

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