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富山源次郎

富山源次郎 生没年不明(明治4年47歳 分限帳より)
假名源次郎 諱貞良 篤信 蕃賞 要人。250石家老、九代藩主の当職。
富山家八代馴正長男壽英二男。天保14年(1843)兄九代鎮路の家督を継いだ。

九代藩主毛利元蕃は幼名を徳太郎といった。その後、天保7年(1836)には広篤と改めた。翌8年(1837)家督を相続し徳山藩主となる。富山源次郎は天保14年(1843)藩主の一字を賜って篤信と改名。家督を継いで富山家十代となり、藩主広篤が安政3年(1856)元蕃と改名すると、源次郎はその翌年、再度一字を賜り蕃賞と名乗った。

幕末、徳山藩の内訌あり。
源次郎は宗藩の佐幕派と気脈を通じ、徳山藩の佐幕派の中心人物として権力をほしいままにしていた。この富山家老の一派と、これに反発した革新派一派の争いである。元治元年(1864)ついに革新派の一人河田佳蔵が単身富山家を訪れ源次郎を襲うという事件が起こった。これが世にいう「徳山殉難七士」の事件の始まりである。富山を襲った一味として藩士七名が切腹、暗殺などの犠牲になった。その後、世の中は尊王攘夷の幕府打倒が優位に立ち、藩主元蕃が宣誓、佐幕派は俗論派、革新派が正義派とされたのである。革新派は血判し血盟書のもと団結した。
これにより富山は失職し野島遠島となった。後、山口の獄舎幽閉、釈放後病死したという。
源次郎の墓の所在は不明。嗣子半左衛門鎮亮の墓碑は、妻梅子と寄り添うように大成寺共同墓地に埋もれている。

俗論派による正義派の取り調べの様子は『有志詰問録』に記されている。
『有志詰問録』は『徳山市史史料 中』に掲載されている。

源次郎嗣子半左衛門、梅子の墓<2018年 素浪人撮影>
富山縮富山鎮亮1舞車町1800-2


公開日:
最終更新日:2024/04/23

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