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杉原盛周

杉原盛周 [1740-1825]
初め正蔵 假名舎 杉原九郎左衛門家五代目 馬廻100石
実父は岩崎仁左衛門知方、実母は松岡惣左衛門政直娘

宝暦6年(1756)四代目杉原勇左衛門跡を相続した。
実父岩崎仁左衛門は兄藤右衛門と共に徳山藩改易後再興の功労者である。
仁左衛門は通り名で仁左衛門知方は三代目。
六代目仁左衛門信恭は日置流大蔵派射術指南役で文久3年(1863)甲冑着用並故実授方に師範として任じられている。盛周の孫にあたる。

盛周について。
徳山藩七代藩主毛利就馴は学館鳴鳳館創立など多くの治績をあげ、隠居後は富田別邸で風月を友として悠々自適の日を送った。
その就馴公の『富田美談』に、
「世子広鎮のいまだ御幼少のおり、杉原舎が御伝役を勤めて居ったとき、寒中障子を開け放ちて習字の稽古を授けておりしを、ある家老がときを見て、障子を閉めて、と注意せしに、舎曰く、将来は朝七時御登城もなさるべき御身分である。このくらいの寒さに辟易せられては立派なお方にはなれぬと答えて、その家老の注意を無視したので、家老はこのことを公に告げた。
然るに公はかえって家老の不所存をお叱りになった上、その翌日、舎をお側近くにお召しになって、稽古は勿論食事の際における礼儀作法に至るまで宜しく頼むぞ、汝はその職に忠実であれ、決して他人の容喙を許すなと言って杉原舎のその心掛けの程をいたくお誉めになった。」とある。(『徳山の文化に貢献せし人々』 梅原芳堂著)
長女は鳴鳳館三代教授長沼簡采石の妻。
杉原家の墓碑は福田寺に集中していたが、無縁墓が多く大部分が撤去された。
杉原舎盛周墓碑も同じ運命にあったが福田寺住職の計らいで保存されることになった。
文政8年(1825)正月5日、86歳の高齢を以て卒した。
戒名は義正院實巌良忠居士。

杉原舎墓碑縮徳山藩士の墓碑群の中に保存された盛周の墓碑(右手前)2024年4月素浪人撮影
杉原盛周墓碑
杉原家略系図


公開日:
最終更新日:2024/04/17

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