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第七代藩主 毛利就馴

第七代・毛利就

徳山毛利家蔵・周南市美術博物館寄託

第七代藩主 毛利就馴 <1750 – 1828>

第五代藩主広豊の十男である。寛延3年(1750)11月6日、江戸の今井谷邸に生れ、幼名を専之助といった。明和元年(1764)2月、兄の広寛が卒し、兄弟は早世、あるいは他家を相続し男子がなく、4月21日その遺封を継いで就馴と改名した。明和4年(1767)12月16日、従五位下に叙し、大和守に任じたが、天明元年(1781)閏5月13日、改めて石見守に任じた。

天資英邁闊達、藩政を執ること34年に及び、よく下情に通じて士民を愛し、名家奈古屋蔵人を重用して諸政に治績をあげた。また、藩士に命じて各家に伝来の古文書や、その系譜を提出させ、藩祖就隆および三代元次の詩文を編集してその散逸を防ぐなど、大いに意を文事に用い、天明5年(1785)にはさらに藩学「鳴鳳館」を創立して文教興隆の基礎を築いた。寛政9年(1797)9月24日、隠退して家督を広鎮に譲り、11月11日に左兵衛佐と改名した。同11年(1799)3月26日、疾と称して帰邑の暇をこい、5月、下松の仮寓に入った。ついで文化元年(1804)2月、富田に別邸を設け、同4年(1807)9月23日に名を就友と改め、同13年(1816)12月23日に惣髪して政翁、また泰翁と称し、風月を友として悠々自適の日を送ったが、文政11年(1828)3月20日、79歳の高齢を以て富田の別邸に卒した。法名を隆興院徳運全功大居士という。(徳山市史)


公開日:
最終更新日:2021/02/10

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