*

児玉久子

児玉ヒサ [1843-1937]
徳山藩士児玉半九郎忠碩と児玉孫三郎忠清娘モトの長女。陸軍大将児玉源太郎の姉である。天保14年(1843)4月22日徳山町に生まれる。
源太郎が大成した裏に、自己の生涯を顧みず犠牲になって尽くした烈婦ヒサがいたことを忘れてはならない。
父半九郎は100石馬廻格であったが、安政3年(1856)10月46歳の若さで突然他界した。遺されたのはヒサの妹、母、そして未だ4歳の弟源太郎、源太郎は幼少につき家督相続はできなかった。
安政5年(1858)、藩校興譲館一刀流指南役浅見栄三郎の二男次郎彦を婿養子に迎えた。次郎彦は弱冠にして文武両道に秀で、藩中稀なる逸材であった。勤皇攘夷に志し正義派として吉田松陰、高杉晋作らと交友し、常に敵対する俗論派の窺うところとなった。
その中、ヒサは次郎彦を助け、志士を掩護し、幼い百合若(源太郎幼名)を将来有為の士とすべく、志士の会議に積極的に参加、心胆の錬磨に努めていた。
元治元年(1864)8月12日、次郎彦は自宅にて、突然、俗論派の刺客の襲来を受け、非業の死を遂げた。22歳であった。ヒサの悲憤はいかばかりであったか。
俗論派の世である。家名断絶、家禄没収、屋敷は明け渡し、一椀の粥さえ思うに任せず、どん底に陥れられた。ひたすら老母に孝養を尽くし、亡夫に代わり弟を励まし、弟の世に出でん日の早からんことを日夜神仏に祈願し、また、忘れ形見文太郎を抱き、か弱き女性の身でよく家計を支えた。
天は回り、慶応元年(1865)7月13日、ついに藩論は勤王に傾き、児玉家は家名再興となり、源太郎は新知25石中小姓出仕を命ぜられた。
源太郎は明治元年(1868)徳山藩献功隊に籍を置いてから以後、軍人として歩み、日本の陸軍大将にまで上り詰めた。ヒサはその間、常に源太郎の身辺におり、また、夫人マツも助け13人の子を教育した。源太郎に「我が心事を最も解するは者は姉なり」と言わしめている。
明治21年(1888)には徳山藩殉難七士の碑が完成、また明治31年(1898)には、従四位の碑が建立され「児玉次郎彦」の文字が一番先頭に刻まれた。ヒサの計り知れない苦労は報われた。
昭和3年(1928)6月、ヒサに「緑綬褒賞」が下賜された。

「日本帝国褒章之記」
山口県華族 児玉ヒサ
資性恭順に仕えて勤王の誠忠を致さしめ、夫没するや困難なる家計を支持し刻苦奮励弟妹の教養に努め遂に家道の興隆を見るに至らしめ、又克く老母に孝養を尽くしたる等志操を渝へざること六十有余年の久しき終始一日の如し、洵に奇特とす、依て明治14年12月7日勅定の緑綬褒賞を賜いその善行を表彰せらる
昭和3年6月22日
賞勲局総裁従四位勲二等 天岡直嘉 ㊞

次郎彦久子

昭和12年(1937)1月19日天寿を全う、95歳の生涯を閉じた。


公開日:
最終更新日:2024/05/01

no image
徳山毛利家14代就慶氏舞台デビュー!

毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

→もっと見る

  • info@tokuyamahan.com
PAGE TOP ↑