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福間元道

福間元道 [1560-1639]
毛利徳山福間家の祖 500石家老/当職
淡路守 諱元良 後元道 幼名虎松 彦三郎 彦右衛門
福間元明長男 永禄3年(1560)生まれ
母宍戸安芸守隆家家臣中所対馬娘 恵厚院釋尼好述妙徳大姉
妻村上隠岐守元宣娘妙 梅林院釋尼月涼妙周大姉 万治2年(1659)享年78
妾柳田杢衛門娘(五男隆簾母)雲光院淨譽清壽大姉 元禄3年(1690)卒 無量寺

毛利輝元に仕え、輝元二男就隆3歳の時から傅(もり)役を勤めた。就隆が徳山の初代藩主に任じられた時、就隆を補佐するよう命じられた。その際萩を隠居し、長男彦右衛門就辰に家領を譲り萩家臣として萩に残し、残りの3人の男子を連れ徳山藩に赴任した(五男隆簾は1632年富海村で出生)。粟屋元相に次ぎ御抱え傅御用人となる。後、家老、当職となる。
亡くなったのは寛永16年(1639)12月26日。つまり御館は下松時代で、野上の徳山御館を見ることはなかった。墓所富海竜谷寺/萩徳隣寺 淡劦前吏釈松月乗信居士 享年80。

父福間元明は大内太郎左衛門輝弘(福間家家譜より)、山中鹿之助の首を討取ったことは有名。福山鞆の浦の静観寺の門前に鹿之助の首塚の碑があり、寺内の史料に福間元明討取りと記されていた(素浪人確認)。厳島の戦いでは元就に、福間元明が最大功労者と言わしめている。その他戦功多し。
天正14年(1586)8月26日、豊後の大友と毛利家の戦いのとき大里の浜で戦死。成勲院釋宣竅乗慶居士 享年48。

萩に残した元道長男就辰は「山本博文著『江戸お留守居役の日記』2003年発行 講談社」に詳細が記されている。

徳山地方郷土史研究会誌『徳山藩に命を捧げた福間家の人々』栗﨑健

周南市金剛寺墓地と大成寺墓地の福間家墓所
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公開日:
最終更新日:2024/04/13

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徳山毛利家14代就慶氏舞台デビュー!

毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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