*

飯田忠彦

飯田忠彦 [1799(寛政10年旧12月18日)-1860]
徳山藩士生田十蔵兼門二男。母は大家忠伍公説姉。
生田家にて諱恒裕、初里次郎、次長之輔、通称璠吾。文化9年(1812)松尾喜藤太恒貞養子、松尾恒憲と名乗る。文政2年(1819)退身、実家へ。文政4年(1821)萩家来大阪在身田中良専祐等養育。同年、河内八尾の郷士飯田謙介忠直の婿養子となり飯田要人持直と改める。文政6年(1823)に離縁し同家を出奔するも、飯田姓を残し名を「忠彦」と改めた。名は他に刑部、左馬、子邦、号は黙叟、夷浜釣叟、環山。

幼いころから学問に秀で、13歳で学館鳴鳳館に進む。国史に興味を持ち、特に水戸藩の『大日本史』を熟読した。この大日本史は神武天皇から後小松天皇まで、列伝武将は足利尊氏までしか記述がないため、忠彦は明徳3年(1392)の後小松天皇から仁孝天皇までの420年間の史実を伝記体に編集することを決意。38年かけて、ついに291巻の大著『野史』(民間で編纂した歴史)の刊行を達成した。

忠彦は尊王の大義を唱え、梅田雲浜、藤田東湖、橋本佐内らの勤王の志士との交わりがあり、安政5年(1858)の大獄のとき、突然京都町奉行小笠原長常に捕らえられ入獄。その後、幕府に談じた有栖川宮に引き取られ難を逃れ、京都淨蓮華院で隠遁生活に入るが、万延元年(1860)3月桜田門外で井伊直弼が暗殺されると、嫌疑をかけられ伏見奉行に再び捕らえられた。この時、伏見奉行林肥後守忠交に『大日本野史』『諸家系譜』を取り上げられるが、徳山藩士児玉次郎彦が有栖川宮の命を奉じ林邸を往来、弁論数回にして取り返した。忠彦は宿預かりとなるが、憤慨に耐えられず遂に同年5月自殺。京都河原町二条の龍源寺に葬られた。京都東山霊山、靖国神社に合祀。贈従四位。志信院黙叟理現居士。享年62。

徳山の生んだ二大史家 徳山地方郷土史会誌19号 清木素

飯田忠彦誕生之地 石碑

贈従四位飯田先生旌旌功之碑(周南市徳山動物園内)
iida 2縮
iida 1縮


公開日:
最終更新日:2024/04/06

no image
徳山毛利家14代就慶氏舞台デビュー!

毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

→もっと見る

  • info@tokuyamahan.com
PAGE TOP ↑