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飯田忠彦誕生之地

飯田忠彦は、寛政10年旧暦12月(1799)に徳山藩士生田十蔵の二男として生まれた江戸後期の歴史家である。松尾恒貞の養子となり、松尾恒憲と名乗って江戸の藩邸に勤務していた。文政4年(1821)24才のときに河内の八尾の豪士飯田謙介の婿養子となり、文政6年(1823)に離縁し同家を出奔するも、飯田姓を残し名を「忠彦」と改めた。。

若い時から国史に興味を持ち、特に水戸藩の「大日本史」を熟読した。この大日本史は神武天皇から後小松天皇まで、列伝武将は足利尊氏までしか記述がないため、忠彦は明徳3年(1392)の後小松天皇から仁孝天皇までの420年間の史実を伝記体に編集することを決意。それから30年余りかかって、ついに291巻の大著「野史」(民間で編纂した歴史)の刊行を達成した。

忠彦は尊王の大義を唱え、梅田雲濱・橋本佐内らの勤王の志士との交わりがあり、安政の大獄のとき留置の身となり、やがて万延元年(1860)5月自殺した。時に62才であった。

(周南市教育委員会)

石碑は二番町のバス停前に建っている。また、徳山動物園内には「贈従四位飯田先生旌功之碑」がある。

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公開日:
最終更新日:2024/03/10

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