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奈古屋里人

徳山藩に過ぎたるもの三つあり。「藩主墓所と桜馬場、そして奈古屋里人」と謡われた。
奈古屋里人は享保4年(1719)徳山藩再興を指導した最大功労者である。
[寛文11年(1671)~寛保元年(1741)]

里人は寛文11年に徳山藩家老奈古屋主水隆充の三男として生まれた。長兄は隆充を家督した後の家老奈古屋玄蕃隆芳である。
里人の幼名は万槌、後、辨之助、與一郎、左門、勘左衛門と改め、最後に左衛門と称した。人形屋三左衛門と変名したこともある。号は知足軒、晩年は 松軒、尚軒、松雪軒など。延宝9年(1681)6月叔父の奈古屋勘左衛門隆吉(100石馬廻格)の養子となり、天和2年(1682)家督を相続、徳山藩二代藩主毛利元賢に仕えた。後、三代藩主毛利元次に仕え、20石を加増されるなど優遇されていた。
正徳5年(1715)6月、「万役山(まんにゃくやま)事件」勃発、徳山藩三代元次と萩宗藩五代吉元の間で起こった大事件である。宗家萩藩領、西久米村と徳山藩領の境界で萩藩領農民喜兵衛が松の木一本を伐採し、持ち帰ろうとしたことにより、徳山藩士伊沢里右衛門が喜兵衛の首をはねた事件である。両藩双方の言い分が異なり、ついには吉元が幕府に訴え裁定を求める事態となり、吉元も思いもしなかった徳山藩改易となったのである。

万役山-2      事件のあった万役山(周南市桜木)

里人はこの事件の処理について強く元次を諌めたが、聞き入れられず徳山城下から追放されてしまった。そして翌年徳山藩は改易。里人は追放されながらも藩再興のために中心となり画策した。そして享保4年(1719)、「周防徳山領百姓中」と署名した嘆願書が老中らの目に留まり、艱難辛苦の4年の努力が実を結び、徳山藩は奇跡の再興を遂げたのである。遠く出羽国新庄藩の地に預けられていた元次は江戸からの多数の徳山藩士の迎えに感涙した。この時、元次は里人に詫び感状をしたためたのである。
その後、間もなく元次は死去、長男百次郎が元堯と改め第四代徳山藩主となった。里人は改易中、各地の神社に参詣祈願した。しかし藩は再興後、神社へのお礼参り等には冷ややかであったことから、養子とも離縁、奈古屋里人家は断絶、徳山を捨て京都に隠棲した。

墓所は京都瑞泉院。
<写真下>周南市無量寺の奈古屋家墓所にもある。戒名光源院松譽亮圓居士。

IMG_5348奈古屋里人縮小

もう一つの忠臣蔵「万役山事件」毛利家当主が語る[毛利家歴史チャンネル YouTube]

徳山藩再興三百年記念

『徳山藩の改易と再興 ~逸史 中興秘録(全)を読む』 松永恵子

『徳山藩の改易と再興 奈古屋里人の生き方』 徳山地方郷土史研究30号 森重祐次

『徳山藩再興に尽力した陰の功労者 中山伴七とその一族』 徳山地方郷土史研究42号 栗﨑健

『徳山藩に過ぎたるもの三つ』の内のひとつ<藩主墓所>
就隆墓所
就隆墓所2

『徳山藩に過ぎたるもの三つ』の内のひとつ<桜馬場>
旧藩学館跡(現徳山小学校前)より東を望む / 写真下 同場所より西を望む
桜馬場

桜馬場


公開日:
最終更新日:2024/05/02

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