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第三代藩主 毛利元次

三代・毛利元次像

徳山毛利家蔵・周南市美術博物館寄託

第三代藩主 毛利元次 <1667-1719>

元次は第二代藩主元賢の兄であるが、幕府へは寛文11年(1671)生まれと届けた。元賢の養子となる。幼名を永井亀之助、ついで主計、賢富また賢充と称した。初め母方の地の京都にいたが、延宝5年(1677)、11歳の時に迎えられて徳山に移る。しかし、その身分は家来の席にあって、家老と同等の扱いを受けた。元禄3年(1690)8月10日、元賢の後を継いで徳山第三代の藩主となり、江戸に至って襲封の手続きを終え、9月17日に名を元次と改め、12月26日に従五位下に叙し、飛騨守に任じた。

これより先、元賢の末期に当たって、老臣の間には継嗣問題が起こり、妾腹の元次に反対して、長府毛利綱元の第二子を迎えようとする動きがあった。元禄4年(1691)、元次は藩主として初めて徳山に帰り、九月に領内を巡視したが、従来の蕃政は就隆が晩年の十数年間、江戸に滞在して直接政務にあずからず、元賢もまた幼少で封を継ぎ、藩政を知らなかったので、おのずから老臣が権勢をほしいままにした。元次は襲封と同時にこれを排して、藩主としての実績を収め、後継問題に絡んで、神村将監及び桂民部を退け、両家の断絶を命じた。

元次は明敏で好学の聞こえが高く、将軍綱吉の経書講釈にもしばしば列席した。学問に力を注ぎ、「塩鉄論」を読んでは、この書が経国済民に有益と思い、京都の伊藤東涯に依頼し、読みやすくして刊行。また、居館の傍らに学問所を兼ねた遊息の場として棲息堂を建て、また、松屋の亭を設け「松屋十八景」すなわち徳山の十八名勝を選んだ。自ら遠石八幡宮と遠石町のことを叙して「遠石記」、桂方直に「徳山府記」、更に「徳山名勝」「徳山雑吟」を刊行。これらによって当時の城下町徳山の状況を想見することができる。

正徳5年(1715)夏、万役山事件が起こる。宗蕃との争いに発展し、解決ならず翌年、宗蕃蕃主毛利吉元は元次の隠退を幕府に請願する。が、隠居でことは済まず、徳山藩改易に処されたのである。元次は新庄藩に引き渡され、三か年の歳月をここで送った。享保4年(1719)5月28日、奈古屋里人らの活躍により、幕府は徳山藩の再興と同時に元次を赦免。その年、11月19日、数奇な一生を閉じる。徳山大成寺に葬る。法名を曹源院性海滴水大居士という。(徳山市史上)


公開日:
最終更新日:2021/02/10

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