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児玉源太郎産湯之井戸・児玉家屋敷跡

日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎(1852~1906)は、嘉永5年(1852)2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれた。当時使用していた井戸が保存されており、「児玉源太郎産湯之井戸」の標石がある。

児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5年(1858)に浅見栄三郎の次男、巌之丞(のちに次郎彦)に家を継がせた。後に次郎彦は、源太郎の姉久子と結婚。次郎彦は藩の大目付等を務めたが、『正義派』の一人として活動したため、元治元年(1864)8月12日早暁、『俗論派』によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げた。次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されたが、『正義派』が政権をとるや、慶應元年(1865)7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられた。

この屋敷跡は明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷の一部を残して、大部分は近代的な児玉文庫としたが、昭和20年(1945)、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失した。

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 児玉文庫記念モニュメント

 源太郎は若い頃からの体験をふまえて、自ら学問の大切さを実感し、特に読書の必要性を感じていた。早くから手元に本を集め、郷土の若い人々に読んで欲しいという夢をもっていたという。明治36年(1903)後進を啓発するために開設した児玉文庫は、正に驚くべき快挙である。
児玉家を改装して開設した文庫は、近代図書館の先駆けをなすもので、当時のイギリスの新聞にも紹介され、徳山の誇りとする偉大な業績の一つである。
(周南市教育委員会)

「児玉源太郎産湯之井戸」は児玉家屋敷跡に当時のまま遺され、同地に児玉文庫記念モニュメントが建立されている。岐山通りの駐車場の一角にある。

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『児玉源太郎産湯の井戸』の地が、『児玉源太郎生誕の地』として、整備され
平成27年9月17日、完成披露式典が開催された。
源太郎(号 藤園)が愛した藤も植樹された。

源太郎の義兄児玉次郎彦の甥にあたる児玉栄熊が長く児玉文庫を管理していた。
戦時中は砲弾の落ちる中、書籍を命がけで守ったという。
同文庫を住居とし暮らした栄熊の長女浅見道子さん(東京在住)は
ご子息の浅見哲氏(東京在住)と
何度も故郷徳山を訪れ、児玉文庫と歩んだ少女時代の講演をされた。
源太郎は軍人としてとらえる方が多数だが、
文化人、教育人として生きたことを、もっと認識したいと思う。

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2016.12.14


公開日:
最終更新日:2017/05/26

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