史跡万役山尾崎
万役山事件
正徳5年(1715)、徳山藩3代藩主のとき、(※)万役山の松の木を一本切り取った萩本藩領地(当時西久米村一帯)の農民を、徳山藩の山役人が斬り殺すという事件が発生した。
この事件から、萩領と徳山領の領地争いとなり、双方の領民まで巻き込む大騒動となったので、萩藩主は本藩の権威上「支藩が本家に対して反抗非礼あり」として江戸幕府に徳山藩に対する処置を請願した。幕府の処置は厳しく「徳山藩を取り潰し改易」の裁定となった。
後に、徳山藩士の主家再興の誠意努力が江戸幕府の心を動かし、享保4年(1719)5月、徳山藩は再興された。
(※)当時万役山は、萩領では「墓ノ尾山」、徳山領では「尾崎山」と呼ばれていた。
碑文には、正面「史跡万役山尾崎」と記し、側面には「この地は正徳五年六月徳山藩と萩藩との境界紛争発端の地なり」と記されている。 (周南市教育委員会)
周南市桜木の桜並木の通りの小高い丘(墓地)に建立されている。
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