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吉弘元常

吉弘元常 [1642-1694]
周防徳山の人、他郷に出て偉績を残した出色の人物。幼名立仍、字は子常、磬斉また菊潭と号した。早く橘雲堂に学び、寛文4年(1664)水戸藩主徳川光圀に仕えて彰考館修史の事業に参与し、禄300石を給せられた。天和元年(1681)、佐々宗淳とともに、藩命によって南都諸社寺の旧記を採訪し、「南行雑録」を編した。元禄元年(1688)彰考館総裁に挙げられ、翌2年(1689)「修史義例」を作って大日本史編集の基準を定めた。4年(1691)総裁をやめて小姓頭に転じ、世子の訓育を託されたが、晩年に至るまで光圀の信頼が厚く、その寿蔵碑陰の文章は、元常の添削によって成ったものである。
<『徳山市史 上』より>

追補:通称佐介、水戸侯光圀に侍し天和中命を奉じ南都の遺書を捜索し多く寺社の旧記を鈔録し纂めて南行雑録という。講究商搉始めて修史の義例を作るという。朱舜水に従遊し世子の近侍となる元禄元年(1688)佐々宗淳と共に彰考館総裁となる。同7年(1694)児玉数右衛門なるものと如何なる遺恨ありしにや其の家に至り刺して死す、時に其の年6月晦日にて年53なり。西山公嘗て元常に寿蔵碑文の添削を乞いしことあり、水戸家の優遇を受けたり、大正4年(1915)正五位を贈らる。
<『防長人物百年史』末弘錦江著より>

『徳山の生んだ二大史家等を温ね王政復古の史観を想う』 徳山地方郷土史研究19号 清木素


公開日:
最終更新日:2024/04/27

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