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南天棒和尚(中原鄧州)

南天棒和尚 [1839-1925] 大成寺住職[1869-1884]

禅界の傑僧十二世南天棒

大成寺十二世南天棒は中原鄧州、別号白崖窟という。明治2年(1869)31歳の時、初めて住持職についたのが、大成寺である。
その後、全国の禅道場を巡り、無能と思えた修道者を容赦なく殴打したという近世禅界の傑僧である。師は常に南天の杖を持ち歩いていたので、南天棒と呼ばれた。奥州松島の瑞巌寺の住職にも就いた。南天棒は全国に幾千人もの信者があり、信者は居士大姉号を授かっていた。山岡鉄舟居士、児玉源太郎は藤園居士、乃木希典は石樵居士を授かっている。児玉、乃木との逸話は有名であるが、大成寺においても、豪放磊落な逸話を残している。

立派な黒漆塗りの箱が納められている二重の箱が大成寺に大切に保管されている。外箱の蓋の裏に次の如く墨書きされている。

『 般若山大成寺寺宝
開山傳法衣古金襴裁雑七條 弐肩
開山竺印大和尚受用物
茶色古麻二十五條袈裟   弐肩
右 黒塗春慶 二重函入
此函永々不許他用
維時明治三歳集庚午孟旾初十日予普山開堂
之次謹受領這傳法衣也 …中略…
開山受用物也又頼有二重函閑却因方袍二肩
納置這裏者儞后来之児孫最厳密護持莫為等
閑會好至嘱 仝年仲春念四日般若山鄧州誌 』
(下に写真あり)

南天棒は確かに「この箱を他の物入れに使うな。ここに開山和尚の傳法衣を受け継ぎ納めている。孫の代まで大切に守り続けよ」と記している。ところが、この寺宝は福川の豪商柏屋の子孫、福田雅正氏より、昨年、大成寺に届けられたものである。その謎は福田氏が出版された『福川柏屋 祖先記』に記されていた。

『徳山毛利家菩提寺大成寺の住職南天棒が、寺の家財什物を売物に出した時、相当数を引き受けた。袈裟筥(袈裟三肩)、衣筥(衣一、下着一)、雑品筥(白玉酒杯等六品)、蒔絵、硯筥、香盆、食器、絵画入板戸等である。』

南天棒の逸話がここにもあり、堀江一道大成寺現住職と思わず笑ってしまった。

しかし、福田氏のご厚情で寺宝が返ってきたのである(但し、中身は袈裟一肩のみ)。約三百五十年前の袈裟である。現在、本堂に竺印和尚の頂相とともに飾られている。
徳山藩毛利家菩提寺 般若山大成寺の歴史』より

伝法衣奇跡的に戻ってきた伝法衣

縮IMG_5141IMG_5149縮(素浪人撮影)

徳山藩絵師に安野保五郎華嵿がいる。安野家は同じく徳山藩絵師朝倉南陵が出た家である。その安野家に明治初めの徳山の文化人たちが描いた寄合書があり、その中に南天棒の書がある。(安野英昭氏蔵)
南天棒和尚寄合書「一曲両曲無人会雨過夜塘秋水深」と禅語を引用
寄合書(素浪人撮影)

 


公開日:
最終更新日:2024/04/30

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