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竺印和尚

大成寺竺印和尚 [1610-1677]
大成寺創建開山竺印門和尚大禅師
延宝2年(1674)徳山毛利家初代藩主毛利就隆招く。

長州藩主一家に愛された開山竺印祖門和尚
都濃郡史に大成寺は「藩主毛利公の菩提寺にして伽藍の宏壮白亜の輪煥遠く之を望み街道の往復者嘆賞せざるものなかりし」とあるように、禅宗様式の七堂伽藍の揃った大寺院の誕生であった。

開山当時、延宝二年(1674)分限帳に『寺領高百石被下之外ニ高五石八斗六升寺禄被差除候事』とある。天保三年(1832)は百石切米五十石と寺社筆頭の寺領であり、時期は不明であるが石高二百五十石、家老に次ぐ上席であったという資料もある。

大成寺開山竺印和尚は明暦二年(1656)妙心寺龍華院を開山している。開基は長州藩初代藩主秀就(就隆の兄)の正室喜佐姫(徳川家康の孫)とも、喜佐姫の子、松平綱広ともいわれている。松平綱広は藩主秀就の四男で後の長州藩二代藩主毛利綱広である。龍華院の前身は徳昌庵といわれ、寛永年中、これも毛利家によって開基したものといわれている。喜佐姫の『法名龍昌院』からも推察される。しかし、妙心寺史においてはいずれの開基も不明確ということである。いずれにせよ、竺印和尚は長州藩主秀就一家に頗る外護されていた。竺印和尚の大法衣は秀就の長女登佐が寄付したものでもある。登佐は伯父にあたる越前福井藩主松平忠直(家康の孫)の長男越後高田藩主松平光長の正室になっている。

竺印和尚は、また、長門生まれの長州人である。
徳山藩毛利家菩提寺 般若山大成寺の歴史』より


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毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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