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玉井右源太

玉井右源太 [1777-1838]
諱政虎、假名栄之進、寛政4年(1792)右源太と改名。
玉井弥兵衛政親を初代とする玉井家八代目。五代目政敏の二男。安永6年(1777)8月徳山で生まれた。六代目は政敏の弟政式、44歳で亡くなったため、七代目は政敏の長男政芳が継いだ。しかし、寛政元年(1789)2月7日病身に付退身し、同12日、その弟政虎が家督を継いだ。80石の馬廻格。
文化9年(1812)9月後妻に羽仁傳蔵保定の娘を娶る。
長男孫四郎政貞、文政10年(1827)右源太隠居につき家督を相続する。

右源太は製塩をすすめ福川塩田開作を藩の事業とし、文政12年(1829)監督となり、両人役の事務は同僚に任せ、自ら塩田開作に当たった。甲斐あって天保3年(1832)福川浦開作築立。その後、塩田に整備され、天保10年(1839)徳山の光永源右衛門が製塩を始めた。右源太死後、天保12年(1841)3月、福川地方の住民が塩田の畔に和多(綿)津美神社(現/福川・保土谷化学敷地内)を建立した。毎年4月17日を祭日とし製塩の業を休みとした。右源太の心血を注いだ功績は称すべくものであった。

天保2年(1831)9月2日、夜市福川百姓一揆が起こる。夜市村百姓2~300人位福川へ押しかけ、家屋多数打ち壊す。その後、平野町、富田新町、土井町等騒動が広がり、打ち壊された川崎村百姓が仕返しで夜市に押しかけ打ち壊す。また、下上村等の百姓が加わり都合57軒を打ち壊す。(徳山市史史料中他)
夜市福川富田の百姓一揆は、現銭預かりと称する紙幣引換を主としたものであった。およそ500人が徳山政府に迫り上訴せんとするを川崎にて食い止めたが、これは物価高騰に源を発し、紙幣増発を催し正貨との引換を不可能たらしめたることで、天保5年(1834)8月9日、当役、両人役等多数が責任を取らされた。(徳山市史史料下 徳山人物史料 玉井右源太)
右源太はこの年4月、藩の事業多忙につき、隠居ながら両人役として御雇とされ、運悪く一揆の責任者の一人となった。9月17日右源太は野島へ流罪、家柄断絶となり、その子、孫四郎ほか家内の者は五人扶持を下賜され徳山居住を許された。右源太は野島で天保9年(1838)4月23日病死した。享年62。
同年12月15日、お咎めは許され、生存中なれば帰還できたが、死去のことゆえ、帰葬となった。

右源太の家督を相続した孫四郎は父のお咎めにより断絶となったが、その後、鳴鳳館最後の教授小川乾山の尽力で、嘉永元年(1848)再興なり、興譲館訓導を勤めた。孫四郎から脩蔵と改名した。

 


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