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四熊宗庵

宗庵は四熊家13代目。名は直方。大阪の吉益掃部に漢方内科を、花岡文平に漢方外科を学んだ。慶応3年(1867)に藩に出仕して兵隊病院惣管を勤め、函館戦争に従軍して「蝦夷地戦争銃瘡療治覚」を書き残している。明治元年(1868)に山口病院で医術考試を受け、明治11年2月、山口県開業医第三百三号の免許を受け明治41年1月9日、76歳で没した。

宗庵が兵隊病院勤務中に手記した「第二病院」の記録には、第二次長州征伐に備えて設けられた野戦病院に、徳山領内在住と思われる医師40名の名前が記されている。

徳山における医学教育の機関としては、医学館のほかに四熊家の「見学堂」が規模も大きく有名であった。見学堂の沿革は明らかではないが、九代養庵、名は俊方(1730~1801)の代にはすでに存在していたようである。(徳山市史)

萩本藩創設以来、多くの医業を営む者が本藩及び各支藩において藩医として登用され,伝統的な漢方医学を代々伝授してきた。また、西洋医学を伝える者もいた。この間、萩藩校明倫館が創建されたが医学教育は行われなかった。文政6年(1823)シーボルトが長崎に渡来。同年,徳山藩は藩校鳴鳳館内に医学館を併置して医学の講義を開始した。これが防長二州における公的医学教育の始まりである。ここでは藩医ばかりでなく地下医(村医,町医)も藩医の門人になれば受講資格が与えられた。初期の講義は漢方医学のみであったが。
徳山藩における医学教育についてさらに特筆すべきことは,四熊家の「見学堂」である。文政6・7年頃、藩内には,総計6箇所の医師養成のための私塾 があったが,中でも「見学堂」は蘭方医学も教える先進的な私塾であった。開塾期間は遅くとも享和元年(1801)から嘉永5年(1852)以後まで50年以上にわたり,四熊家9代俊方から12代謙方までの4代が塾主として教育と経営に携わっている。(山口大学医学部源流より)

四熊家住宅主屋及び診療棟は登録有形文化財に指定されている。

主屋は、江戸時代初期から医業を受け継いだ旧家の主屋で、桁行8間半、梁間5間半、2階建てで、屋根は寄棟造、茅葺で、周囲に桟瓦葺の庇を巡らせている。県下でも数少ない大規模な茅葺屋根を残す民家で、裏山を背負って建つ姿は、地域を代表する歴史的景観を形成している。

診療棟は、主屋の玄関脇に前方に突出して設けられた付属棟で、約5メートル四方の診療室とその東脇の出入り口・受付からなる。外壁は鼠漆喰塗りとし、縦長の上下げ窓の窓枠や隅の柱形は繰形を付けて白漆喰で仕上げ、控えめながら洋風の意匠を造っている。(周南市文化スポーツ課)


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