徳山地方郷土史研究第42号発行
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素浪人 混迷の日々
徳山藩が改易になった時、再興に尽くした中山伴七(善右衛門)という町人がいました。
世子百次郎(後の第4代徳山藩主毛利元堯)から感状をいただいた程で、その感状は今も中山家に大切に保存されています。
中山家の現在の当主は中山義文さん、第15代です。
京都大学を卒業後、香港大丸の社長を務められた御歳94歳お元気です
昨年、中山家に伝わる多数の古文書を見せていただき、まとめたものを徳山地方郷土史研究会の会誌に掲載していただきました。
(近々、徳山藩.comに全文掲載します)
その会誌が出来上がったので、中山さんにお届けする為、自転車でぶらり、ぶらり〜
「徳の山」の徳山を出発、「富んだ田」の富田(とんだ)の鯉のぼりを眺めて、「福の川」の福川へ〜その先は「富の海」の富海(とのみ)です
井上馨でしたっけ、縁起のいい名前の町がずらり並んで「きっと裕福な人達が住んでる町だろう」と言ったのは
くっ〜我、年金暮らし
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研究会誌の内容紹介もさることながら、
「徳の山」の徳山
「富んだ田」の富田(とんだ)
「福の川」の福川
「富の海」の富海(とのみ)
確かに縁起のいい地名ばかりっていう記述になるほど、と感心しました!
合併等で昔からの地名、先人たちの思いが詰まった地名が無くなっていくのは悲しいですね。
投稿をありがとうございました。
とても励みになります。
これからもよろしくお願い致します。
栗崎様ご無沙汰しております。研究会報第42号拝見しました。貴論文「徳山藩再興に尽力した陰の功労者 中山伴七とその一族」興味深く拝読しました。その中で中山家に伝わる「証文」の一つが紹介されていましたが、証文の宛先が小野甚五左衛門とあります。この人物は中山家とゆかりのある人なのでしょうか。と申しますのも、文久三年当時、奈古村の庄屋を務めた人物が小野甚五左衛門だったからです。同姓同名の別人なのでしょうか。奈古村庄屋の小野甚五左衛門は奈古村内の小村、河内村の有力農家で、長らく畔頭を務めた後、庄屋になりました。安政2年の江戸大地震の際は150両を用立てています。安政4年2月朔日付大礼禄によりますと、甚五左衛門が村内他の有力者と並んで300両を用立てたことをうかがわせる記述があります。中山家の「証文」は金200両とありますので、大礼禄の記述とは合いません。やはり別人なのでしょうか。もし別人でないとすれば、なぜ奈古村庄屋宛の証文が中山家に残されていたのか、という疑問がわいてきます。少々気になりましたので、お尋ねした次第です。
三浦さん!
ごめんなさい!
三浦さんのメールが未承認で保留になっていました。たった今気がつきました。
一年、経ってしまいますね。ほんとうに申し訳ありません。
小野甚五左衛門は恐らく三浦さんの言われる人物だと思います。
今一度、確認して、別便でご連絡いたします。
お許しください!!