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館林藩(群馬県)に迷惑をかけた徳山藩 !?

公開日: : 最終更新日:2016/12/13 素浪人 混迷の日々

群馬県館林市が館林市史編さん委員会の編集により
『館林市史 通史編2 -近世館林の歴史-』を発刊した。
大きさはB5判、全ページにカラー写真が豊富に掲載され539ページに及ぶ。
布張装幀の豪華保存版である。
編集に携わった方々のご苦労は大変なものであったと思われる。

さて、
幕末のそれぞれの藩主に、毛利元徳(萩藩14代藩主)、毛利元蕃(もとみつ)(徳山藩9代藩主)、秋元志朝(ゆきとも)(秋元館林藩初代藩主)がいる。実は、三人、兄弟であり、徳山藩8代藩主毛利広鎮(ひろしげ)の子である。また、元藩と志朝の母は秋元家9代秋元久朝の姉である。さらにいえば、元蕃の嗣子徳山毛利家10代毛利元功の子が秋元家に養子に入り、秋元家13代秋元春朝を名乗っている。
つまり幕末から明治にかけて、徳山毛利家と館林秋元家は親密な姻戚関係にあった。
それが故、表題の『館林藩(群馬県)に迷惑をかけた徳山藩!?』になるのである。

第一次長州征伐の時、館林藩内でも尊攘派と佐幕派がいたわけだが、そこは親戚徳山藩に関わること故、徳山を救え、長州を救えということになった。経緯は省略するが、結局は館林藩による幕長周旋は失敗した。その後、禁門の変が起こり、長州は決定的に幕府の敵となり、ついには、秋元志朝は徳山藩に内通したということで藩主の座を追われた。徳山藩江戸藩邸没収という処分も受けることになり、当時江戸詰めの徳山藩士多数を、館林藩が親戚が故に、幕府の苛酷な条件のもと責任藩として幽囚することとなった。

結論としては、館林藩は最後の最後まで、徳山藩の面倒を見るのだが、幕末の過渡期は徳山藩に振り回されたということである。兄弟愛ですね。と片付けていいのか、その為、命を落とした館林藩士もいるわけで、徳山藩贔屓の方は、館林藩を忘れてはならないのです。
逆に、館林藩に命を助けられた徳山藩士もいるのです。

数年前、館林を訪ねました。
文化振興課の方々に、実に親切に迎えていただきました。
館林の人々は、遠い徳山から来た毛利家の人々を、今も暖かく顕彰してくれています。

しかし、徳山は秋元館林藩に関する物を何も残していない。
それどころか、歴史あるものを壊していくばかりで、恥ずかしい限りだ。

明日、秋元春朝自らが残した祐綏神社の石灯籠に侘びに行くことにしよう。

館林市史編さん委員会の皆様、大変お疲れ様でした。
徳山藩も取り上げていただき、感謝致しております。
ありがとうございました。

当サイトの『研究論文』『徳山地方郷土史研究会』の第35号
矢嶋作郎伝・上野国秋元館林藩の奮闘
を是非、読んでみて下さい。

舘林1◎

舘林3◎

 

徳山藩のことも、取り上げていただいています!舘林4◎

pict-祐綏神社◎祐綏神社・手前の石灯籠が秋元春朝の奉納したもの

徳山祐綏神社秋元春朝奉納の灯籠 IMG_0844◎

 

Comment

  1. 小原 より:

    このような歴史があったのですね。「矢嶋作郎伝・上野国秋元館林藩の奮闘」読みいってしまいました。わかりやすい解説ありがとうございます。徳山藩にかかわる者としては知っておくべき事実、掘り起こしていただきありがとうございます。

    • 素浪人 素浪人 より:

      いつも、いろいろとありがとうございます。
      家臣一覧に追加しました。

  2. 御駕籠者 より:

    お世話になっております

    館林市の隣に居を構えておりますので
    補足事項など、ありましたらご用命ください。

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