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徳山藩七士殉難から150年!

公開日: : 素浪人 混迷の日々

徳山藩は堺町御門の警衛を解かれた文久3年(1863)の『八月十八日の政変』以後、幕府に恭順しようとする俗論派(保守派)と反幕府の正義派(改革派)の抗争が激しくなる。翌、元治元年(1864)『蛤御門の変(禁門の変)』により長州は朝敵とされ、第一次長州征伐を受ける。いよいよ時勢が俗論派に傾き、その俗論派により政義派の粛清が一斉に為された。そして七人が犠牲となった。いわゆる「徳山殉難七士」である。

元治元年8月12日に児玉次郎彦、江村彦之進が暗殺され、同年10月24日、河田佳蔵、井上唯一が刑場に引き出され斬首される。翌、元治2年(1865)1月14日、本城清、浅見安之丞、信田作太夫が新宮の浜(現在の出光興産徳山製油所付近)に連れ出され、絞殺された。

本城清、浅見安之丞、信田作太夫が絞殺される前後、一部始終を見ていた検断小頭・国光利兵衛がいた。
政権が俗論派から再び正義派に変わった時、この国光利兵衛は三人の殺害に関わったとされ獄に繋がれ、厳しい仕返しをされる。
その時の様子を小説に描いたのが、吉田紗美子作『検断小頭・国光利兵衛の答弁』である。

元治2年、本城清、浅見安之丞、信田作太夫が絞殺されて、今年が150年にあたる。
『検断小頭・国光利兵衛の答弁』を秋原勝二氏主宰の同人誌『作文』より転載させていただき、当HPの『書籍』のサイトにアップした。
是非、読んでみて下さい。

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