旧藩新角場跡
角場というのは射撃の練習場(試し撃ちをする所)のこと。徳山藩では、元禄から享保にかけて銃器は軍制上、足軽の所用とされ、武士はその技を修めなかった。文化7年(1810)に中島流の砲術を起し、稽古料として毎年銀200匁あてを修業者に支給した。これが武士の砲術のはじめであり、当時の師範は佐藤紀内だった。
当分のあいだ的場を設けなかったが、弘化4年(1847)2月に三番丁の射的場で中島流砲術の稽古を開始した(旧藩旧角場跡)。
その後、この射的場が狭く不便となり、安政3年(1856)8月5日に当時の舞車のこの場所に移転した。ここでは中島流砲術師範 羽仁三郎太夫に西洋流砲術の師範も兼ねさせ、幕末まで角場として使用された。なお、砲術では棟居龍洞・中川半平・羽仁一夢斉・福間十兵衛らが有名で、兼崎橙堂は西洋砲術に通じていたといわれている。
(周南市教育委員会)
徳山市の初代市長本城嘉守は旧士族の温知会を結成し、多数の石碑を市内に遺した。旧藩新角場跡の石碑は本城家の前に建てられている。
石碑は左、カラスの後。前方は東川にかかる大成寺橋。
公開日:
最終更新日:2014/08/17