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花岡勘場・お茶屋跡

下松市末武上の通称花岡という地に代官所が設けられていた。現在、この跡地を人々は「勘場跡」と呼んでいる。花岡は、江戸期、萩本藩に属しており、都濃郡宰判の管轄であった。

「春雨桜石碑」の碑文によると、文久元年(1861)9月、萩本藩第十三代藩主毛利敬親公が京都に向かわれる途中、9月18日福川の本陣に到着された。しかし、午餐の後、ご発病になり、そのまま、福川にて御養生、22日になって福川を発たれた。その後、花岡の勘場の御茶屋に泊まられ、萩より典医を招き病気の養生を続けられた。御茶屋の庭に壱株の木姿の見事な桜の老木があった。秋九月の頃とて花は咲いていないが、ご養生中のある時、敬親公がその木を眺められて、その姿が見事だと褒められた。敬親公を慰めたその桜は敬親公自身の命名による「春雨桜」の称をもって花岡の人々に永く親しまれ、今も語り継がれている。

花岡1

毛利時代、この地方の19ヶ村を都濃宰判と称し、萩本藩領で萩から役人(代官)がきて治めていた。その役所を勘場といい、花岡は当時この地方の政治文化の中心であった。また、交通の要衝であったので、お茶屋(藩が建てた宿舎)もそばに建てられ藩主や九州諸候の参勤交代、幕吏などが常に宿泊していた。

(説明板より)

花岡2

下松・永田酒造の永田嘉一 春雨会会長の発起)により昭和43年建立

花岡3

 裏面に明治三十七年十二月 男爵 楫取素彦の碑文あり

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公開日:
最終更新日:2014/08/17

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