遠石八幡宮
推古天皇30年(622)の春、「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大神のお告げによりご神霊を奉安し、和銅元年(708)この地に社殿を造営したのを創建とする。
平安時代には京都の石清水八幡宮別宮となり、 本朝四所八幡の一つとも称された。
江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬篤く、祭礼には諸国からも多くの参詣を集め門前は賑わった。
その後も周防国の大社として信仰は広がり、明治時代の社格では県社となり、現在も八幡大神のご神徳を仰ぐ人たちの参詣が絶えない。
遠石町は八幡宮によって発達した町場であり、かつ山陽街道の宿場であった。徳山藩と遠石八幡宮は密接なつながりがあり、城下町徳山の繁栄は遠石の町に大きく影響した。もともと遠石町は遠石八幡宮の宮市として発達したのであるが、近世になってからは、城下町の成立とともに氏子層が拡充され、祭礼は一層盛大になった。祭日は8月15日であるが開府以後は祭礼に藩主の名代が参向し、神輿が御旅所に神幸の後、浜殿の神事には藩士が奉仕して射礼が行われた。祭日に続いて15日間にわたって祭市が開かれる。祭市の取引は遠石町の年中最大の営業であって、他国他領の商人や、遠近の商人が商品を携えて集まり、露店を開き、旅宿がにぎわい、掛け茶屋が繁盛した。
宝永2年(1705)に三代元次は八幡宮に「遠石記」を選んで奉納したが、その中に祭市のことが次のように記されている。
年々中秋の望に至って神を祭る、輿を舁いて別壇に移す、輿前の射礼揖譲として神事を行ふ、観る者堵の如し、望の後、日程を算ふること十有五日、市鄽紗湾に在り、比して櫛の如し、監市の所司あり、厳に仗衛を備えて、経緯目瞳を容れて廻旋見督す、万商の淵、巨千の財貨、山の如くに積み、貿易の人、蜂の如くに聚まり、蟻の如くに回る、讙呼日力を窮めて息む、俳優戯劇の場を舗き、雑還と灌叢と星のごとくに離れて家に還る云々
祭市の賑わいには、古くから歌舞伎芝居が行われ、祭りの期間中、掛け固屋がかけられた。藩祖就隆の代、寛文4年(1664)に赤間関の女歌舞伎が来たのが最初と伝えられる。祭市の呼び物であり、二代元賢はこれを居館の書院に招いて見物した。これが先例となって各代にわたって続けられた。
(徳山市史)
一の鳥居と二の鳥居の間の右手に入る細い道を入ると、以前、千日寺があった広場に出る。沢山の石碑石像が立ち並んでいるがその中に、早乙女の碑がある。昔、田植えをしていた早乙女が通りがかりの飛脚に間違って斬り殺される事件があった。農民は悲しんで松の木を植えて供養した。その後、石碑が建てられ、諸事情で現在地に移動したものである。
令和3年度(2021) 丑の年(素浪人歳男)
令和5年度(2023) きぼう(葵卯)の年
令和6年度(2024) 飛龍/甲辰の年
銅造洪鐘(周南市指定文化財)
形は茸状で鎌倉期の特徴を示します。
八幡宮に古くからあった梵鐘が、元暦の戦いの流れ矢が当たって傷み、新しい鐘に造り直しました。しかし、新しい鐘の鐘声が思わしくなかったため、元応2年(1320)に古鐘と新鐘を錬り合わせて鋳造したことが銘文から分かります。
元暦年中(1184~5)に源平争乱にまつわる戦争が、遠石八幡宮の付近で行われたことを物語る唯一の記録であり、貴重な金石文として歴史的価値が高いものです。
(周南市)
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最終更新日:2024/03/13