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永源山公園/山崎隊墓地と尾崎正章記念館

永源山公園

永源山公園は、旧新南陽市が昭和45年11月の市制施行を記念して開園した面積13.3ヘクタールの総合公園である。限りない活力の源である「水」をテーマとし、永源山の地形を生かした都市的な開発ゾーンと、緑豊かな樹林の残っている保全ゾーンのふたつからなり、市民のレクリエーションやコミュニティ活動の場として家族連れでにぎわっている。

市街地の中央に位置し、緑豊かな自然と山頂からの眺めもすばらしく、一角には平成7年(1995)3月に設けられた、高さ24m、羽根の直径24.66mの、日本最大級の規模を誇るオランダ風風車がある。『ゆめ風車』と呼ばれ、近くを通る国道2号線からもよく見え、周南市のランドマークのひとつとなっている。周南市が旧新南陽市時代からオランダ・フローニンゲン州デルフザイル市と姉妹都市提携を結んでいる事に由来する。

また、夜間、風車は毎日ライトアップされ、昼とは違った表情を見せている。

園内には旧新南陽市出身の画家・尾崎正章の作品を常設展示している周南市郷土美術資料館・尾崎正章記念館が設けられている。

メインエントランス広場には永源山公園プールもあり、夏のシーズンに営業している。

<ゆめ風車>

<ゆめ風車>

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公園の一角にある山崎隊墓地

墓地1

墓地2

奉納 温知曾

奉納 温知曾

同敷地内にある新南陽護国神社

同敷地内にある新南陽護国神社

山崎隊の創設

山崎隊は慶応元年(1865)4月14日、富田村庄屋・政所の岩崎庄左衛門を賄方とし、「富田隊」という仮称で創設された。翌15日に隊名を山崎隊とし、小銃50挺、刀50腰が徳山藩から貸し渡された。仮称の富田隊は創設地の地名を、山崎隊の名称は富田に鎮座する山崎八幡宮にちなんだものである。陣営は富田新町の浄真寺があてられた。同年五月朔日の山崎隊は総人数57人であり、その内訳は総官二人、軍艦一人、器械方二人、応接方二人、稽古取立方三人、兵士三十八人、別当一人、小使二人、荒仕子二人と、藤井幸太郎、福田常右衛門、原田善右衛門、石田順作らであった。藤井幸太郎ら4名はいずれも富田、福川の者で、山崎隊の世話係と考えて差し支えない。

山崎隊はおよそ50人で発足したが、同年9月には100人につき総官一人、軍艦一人、書記二人、斤候二人、隊長二人、押伍二人の割で役付を置くことが定められ、入隊者は「士気芸術精選の上」で決められた。山崎隊の人数は、慶応4年(1868)3月に80人を増員して230人になっているので、それ以前は150人前後が定員であったと思われる。

山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成されたことである。諸士は当主・嫡子で根役を持つ者は入隊できなかった。農町民は農業・商業が取り続けられるように、跡を立てたうえで入隊が許された。富田・福川地域からの入隊者は、二、三男が多く、百姓軒、町家が潰れないように、本人、嫡子の入隊が制限されたためである。このように山崎隊は徳山藩唯一の有志隊として発足したが、その性格は藩の正規軍とされた。山崎隊の戦歴は、慶応2年(1866)の四境戦争に一中隊が芸州口の亀尾川に出陣し、翌3年には四境戦争で占領した小倉城を半年間警備した。ついで明治元年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いをはじめとして明治2年の函館戦争、明治3年の脱退兵鎮圧まで徳山藩の主力として戦った。

(新南陽市史)

 山崎隊士には一ヵ年に米一俵ずつを給し、技芸優秀な者に対しては入隊中、名字帯刀御免の特典が与えられた。これと同時に従来行われた中嶋流の砲術や騎射は廃せられ、一般に洋式の銃砲を採用した。

(徳山市史)


公開日:
最終更新日:2021/02/11

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