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山崎八幡宮/本山神事と連歌

和銅2年8月豊前国宇佐より分霊を周南市富田の河内神宝山に祀り、宝亀元年11月山崎の地に遷す。元、江宮と称し、後、荘寺八幡宮と改称、慶応2年山崎八幡宮と号を改める。古来領主、藩主の崇敬篤く、天文8年領主陶弘護、同隆房は扁額を寄進、江戸時代には毛利歴代藩主の祈願所として藩主の社参、代参、連歌の献詠、流鏑馬等が行われた。また、旧新南陽市はもとより、野島、大津島、周南市一帯の氏神様として広く庶民にも信仰され敬われている。

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連歌懐紙・重硯 <周南市指定文化財>

山崎八幡宮(庄寺八幡宮)への連歌奉納は、毎年8月の祭礼にあわせて徳山藩寺社奉行・筆者役等の役人が社頭に参向して行われた。起源については明らかではないが、少なくとも近世初期・万治頃まで遡ることが出来る。

現存する連歌懐紙は、元禄~文化間が失われているものの、延宝9年(1681)から明治5年(1872)までの62帳である。また重硯は、宝暦8年(1758)に徳山藩家臣の飯田正雨が寄進したものである。

連歌興行の用具が懐紙とともに伝存されている貴重な例であり、近世防長文芸資料として重要である。

(周南市教育委員会)

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境内にある亀の碑文 及び、毛利元就公ゆかりの石碑
「洞春公(元就)の安芸に起こるや、使を遣わして以て祈ることしばしなり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄(領)有す、以て冥裕(神仏のご加護)の使事する所となす」
とあり、毛利氏も篤く崇敬し、江戸時代には徳山藩の御祈願所として、歴代藩主が度々社参した。

 

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青木健作の句碑

「寒月や 干潟に光る いかの甲」

青木健作(1883~1964)は小説家、詩人。富田村河内に、富田村4代村長・青木利作の三男として生まれた。大正3年、井本家の養子となり、青木健作はペンネームとなった。俳号は「兀山人(こつさんじん)」。

東京大学哲学科を卒業後、成田中学、法政大学などで教職を続ける傍ら「ホトトギス」「読売新聞」などに作品を発表。明治43年発表の「虻」は、夏目漱石に推賞されて、大正2年発刊の「現代文芸叢書」の一冊として収録された。無花果会を主催し、随筆集「椎の実」、句集「落椎」などを出版。戦後の富田西小学校歌の作詞者でもある。

 

 

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山崎八幡宮秋季の本山神事で奉納される山車の模型

山崎八幡宮の本山神事 <山口県指定文化財>

この神事は、元禄15年(1702)徳山藩毛利元次が、五穀豊穣を祈願して馬場を新設するとともに、その年の秋祭りから祈願神事山として、本山(ほんやま)及び二つの鉾山(爺山・婆山)を奉納したことにはじまる。

山車は毎年組み立てられ、釘を使用せずカズラで結うなど古式を伝えている。<周南市指定文化財>

神事は、藁縄をとりつけた山車が裸坊によって中央鳥居前まで引き上げられた後に落とされるもので、藩政期の記録にもその様子が記されており貴重である。また、豊作を祈願するための予祝神事とされる。

(山口県教育委員会・周南市教育委員会)

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本山神事 毎日興業(株)中城昭江撮影

山崎八幡宮3 - コピー

本山神事 毎日興業(株)中城昭江撮影

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2020年9月 花手水

 


公開日:
最終更新日:2020/10/08

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