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徳山毛利家墓所と菩提寺大成寺

毛利家墓所

大成寺の横の小道を進むと鳥居が見える。鳥居をくぐり、石段を登りきるとそこが毛利家一族の墓所である。歴代当主とその妻子の墓99基のほか、石灯籠、層塔など多数の石造物が建ち並んでいる。墓所の外周には、かつて土塀が廻っていたと考えられ、現在もその一部が残存している。

初代藩主就隆とその妻の墓には、唐破風付の本瓦葺方形造の覆屋が設置されている。このように、墓石の上に覆屋が設置される事例は少なく、大変珍しいものである。就隆の墓は高さが約4mあり、「徳山藩に過ぎたるもの三つ、藩主墓所と桜の馬場に奈古屋里人」と謡われたほどの、立派な墓所である。

初代藩主夫婦の墓は、昭和61年に市指定文化財に指定されていたが、平成21年10月23日にあらたに墓所全体が市指定文化財に記念物(史跡)として指定された。       <毛利家墓碑一覧>

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左が大成寺。矢印に向かって進むと毛利家墓所である。

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徳山藩初代藩主毛利就隆の墓地

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手前が徳山藩初代藩主毛利就隆、向こうが妻の墓地

 

大成寺

禅宗最大の臨済宗妙心寺(京都花園)派の一等地紫衣寺である。寛文10年(1670)に富田村にあった観音寺を移したもので、始号は潮音山大成院、改号聚福山大成寺、そして現在の山号は般若山である。徳山藩初代藩主毛利就隆が、延宝2年(1674)に京都妙心寺の塔頭竜華院の竺印和尚を招き中興開山とし、ここを菩提寺とした。藩公菩提寺領250石を拝領し、家老に次ぐ上席であった。都濃郡史に「藩主毛利公の菩提寺にして伽藍の宏壮白亜の輪煥遠く之を望み街道の往復者嘆賞せざるものなかりし」とある。ふたつの末寺を従え周防国首座の権勢を誇ったものである。末寺のひとつは、国司信濃守が蛤御門の変で責任を取らされ自刃した澄泉寺である。澄泉寺が大成寺境内に描いてある明治4年の絵図が今も大成寺に保存されている。

江戸時代の禅宗寺院は、世襲住職、妻帯は許されず大本山妙心寺から、紫衣一等寺にふさわしい俊僧が任命派遣された。31歳の時、12世の住職となった中原鄧州師は、近世の禅界の傑僧であった。奥州松島の瑞巌寺の住職にも就いた師は、常に南天の杖を持ち歩いていたので南天棒と呼ばれた。南天棒は全国に幾千人もの信者があり、信者は居士大姉号を授かっていた。山岡鉄舟居士、児玉源太郎は藤園居士、乃木希典は石樵居士を授かっている。

大成寺は藩公菩提寺の為、当然家臣、百姓、町民の檀信徒は許されず、只々毛利家先祖の法要に終始したようである。

徳川幕府の大政奉還、明治新政府の樹立に伴い、寺の衰亡が始まった。即ち、同2年の廃藩置県で当時の食禄を失い、毛利家においては仏教を捨てて、神道への転宗があり、菩提寺としての栄光を一挙に失った。新政府の廃仏毀釈、寺領の没収の痛撃を受けたのである。禅宗は特に廃仏毀釈の風当たりが強く、堂塔伽藍の大半が解体され、無住寺と化していった。一戸の門信徒を持たぬ大成寺もまた荒れるにまかされていった。しかし、先々住18世達禅和尚の時、多年苦心経営の努力が実り、各位の絶大なる協力のもと昭和36年、現在の本堂の落慶を見、引続き先住19世至誠が昭和52年、多年念願の禅堂、位牌堂、納骨堂、庫裡の完成を檀信徒各位の絶大なる物心両面による協力により達成した。そして現住職20世一道のますますの教化活動により今日の大成寺の隆盛をみるに至った。

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周南市舞車 般若山大成寺

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毛利元昭の揮毫による「百万一心」の碑。元昭は、萩本藩最後の藩主毛利元徳の嫡男。徳山藩八代藩主広鎮の孫にあたる。

素浪人による研究発表 徳山藩毛利家菩提寺 般若山大成寺の歴史 

 

 


公開日:
最終更新日:2021/02/11

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徳山毛利家14代就慶氏舞台デビュー!

毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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