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人間魚雷回天・大阪城残石と遭難者の墓 ~大津島~

 

人間魚雷「回天」発射場跡IMG_8203

 

太平洋戦争の末期、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて、人間魚雷「回天」は誕生した。

これは、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器で、隊員の訓練基地が置かれたここ大津島には、全国から20歳前後の精鋭たちが集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していた。そして、窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者がここから出撃していったのである。

今を生きる私たちは、人間魚雷「回天」の史実をここに記し、祖国と愛する者たちのために自らの命をかけた彼らの後世への想いを、永く語り継いでゆかなければならない。

人類多年の悲願である永遠の世界平和実現のために。

 

<回天誕生>

1943年(昭和18年)夏、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと、人間魚雷を構想。その後、戦局はさらに悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ、1944年(昭和19年)8月、正式兵器として採用された。祖国を守りたいとの一心から、特攻兵器「回天」は誕生したのである。

そして同年9月、試験発射場のあった大津島に回天基地が開設され、全国から多くの若者たちが集まってきた。

 

<回天特別攻撃隊への志願>

終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。

回天による戦没者は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。

 

<出撃>

出撃隊が編成され出撃が決まると、最後の別れのため、我が家に帰ることが許された。しかし、秘密作戦であったため、死への旅路に出発することは家族にさえ知らされなかった。

 

出撃の朝。隊員たちは、多くの戦友に見送られながら桟橋へと歩いていく。隊員たちは湾内に停泊している潜水艦に乗り込んだ。「出航」の合図があがり、回天を搭載した潜水艦はわずかに白煙を残し、音もなく進んでいった。

 

<平和への道>

平洋戦争後、世界は平和への道を歩み始めた。しかし、世界には今もなお、たくさんの問題が残されている。

祖国や愛する者たちを思い、懸命に生きた若者たち。その若者たちが自らの命をかけて私達に贈ろうとした「平和」。

今を生きる私たちは、地球上に起きる様々な問題について一人ひとりが考えて行動するとともに、平和への努力を続けてゆかなければならない。

(周南市文化スポーツ課)

 

回天記念館

人間魚雷「回天」に関わる遺品・資料、約1000点の展示を中心に回天の歴史や時代の背景、当時の生活などをパネル展示で紹介しています。この他、研修室、視聴覚コーナーなどを備え、回天の心を通じ平和について学習する施設となっています。馬島港より徒歩10分。

 

回天のこころ、隊員たちの思いを引き継ぎ「平和」を未来に…。

回天は魚雷を改造し、

隊員自らが操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器です。

訓練基地がおかれた大津島にある回天記念館は、

隊員の遺品や資料の展示を通じ、

平和について学習する施設です。

<名誉館長 毛利就慶(第14代徳山毛利家当主)HP制作当時>

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トロッコで発射場へと向かった

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人間魚雷回天発射場跡

七人墓

長崎島原藩の河野助之進一通ほか6名が越後(新潟県)から江戸幕府の御用米を搬送中に元禄6年(1693)6月25日暴風のため回船が大津島横島沖で遭難し死没した者をまつっています。

(周南市観光交流課)

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十人墓

寛延元年(1748)9月2日、黒田藩(福岡県)の御用米を幕府に運んでいた能古島の御用船の乗組員10名が、大津島沖で遭難しました。

その人たちは、かつては対岸の福川の漁師の人たちによって手厚く供養されていました。そのため福川の漁師の皆さんの間では、十人墓を祀ると大漁になるという信仰があったと伝えられています。

今日では、瀬戸浜の「十人墓を守る会」の方々によって、毎年7月7日の七夕の日に供養が続けられています。

なお遭難した十人の墓は、5基だけ碑文が判読でき、他の5基は自然石のままとなっています。

(周南市観光交流課)

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<十人墓堀越しの記>

ここ瀬戸浜は、その昔明治初年頃は無人部落であり、無縁仏の十人墓がこの地名ともなっていた。

明治10年頃、伊予国(愛媛県)の石工がこの地に良質の石山を発見して住み着き現在に至っている。石工達は作業の安全のため十人墓を信仰のシンボルとして崇拝するようになり毎年7月7日には供養を行い仏の加護を祈願した。

昭和47年福岡能古島の歴史家が同島祖先の遭難者であることを確認して以来、大津島と能古島の交流が始まり、昭和57年の例祭には福岡市長が来島し「梅ヶ香や深き情を十人墓」の記念句碑の除幕をするに際し、徳山・新南陽両市の市長も臨席し、両島民が盛大な供養祭を挙行した。

現在両島に十人墓を守る会が設立され、墓の顕彰を通して互いの交流と親睦が深められるとともに、大津島観光の一つとなり四季を通じて参拝者が多い。

                    (十人墓を守る会・瀬戸浜自治会)

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大津島花崗岩・徳山石

 大津島の花崗岩は、中世の頃からすでに有名で、大社、小社の鳥居や灯籠・墓石、あるいは蔓石・橋梁・石垣などの工芸美術用・土木建築用の石材の王座を占めていたことは世間周知の事実である。関ヶ原の戦後、徳川氏はしばしば大阪城の修理を行っているが、寛永元年(1624)2月、玉造石垣付近の修理工事を命ぜられた毛利秀就は同年10月、三田尻御船手の乃美兵部に大津島の石98個を大阪へ運送することを命じた。兵部は冬季にさしかかって、海の荒れる心配のあることを理由に、明春までの猶予を願っていたという。

昭和55年に大阪城小天守台の修復工事の際に、この大津島の石の所在が確認された。石には毛利氏の一字三星の家紋を省略して「一〇」の印を彫りつけてあり、その良質と巨大さを天下に誇示したのであった。

大津島において「一〇」印の紋章を刻んだ切石数個が、あるいは土中に埋まり、あるいは地上に露出していたが、これらはその時の石材の残余といわれている。

徳山藩が本格的にこの石材の採取を業者に許可したのは、相当後年のようである。即ち文化8年(1811)12月23日、徳山東浜崎の和泉屋伊兵衛・浜田屋孫七、徳山西浜崎の若崎屋与二右衛門・岩佐屋幸左衛門・浜崎屋平左衛門・和泉屋治兵衛の六人に対して、10ヶ年間の期限付きで、他国から細工石の注文を受けることを許可している。

その後、許可期間が過ぎて文政4年(1821)延長を願い出たが許可されなかった。しかし、業者の疲弊が甚だしかったので、同6年12月24日、重ねて10ヶ年間その採掘を許可するとともに、従来の仕事場は領内需要の石取り場として、他領向けの分は蛙島一ヶ所に定めた。

同10年(1827)10月10日、公用石材の切り出し場所を大津島に指定した。

このように、その時々の事情によって解禁、禁止と臨時の処置をとってきたが、年間にどのくらいの石材が他領へ輸出されたかは明らかではない。

                           (徳山市史)

 大阪城の残石とされる「一〇」印の紋章を刻んだ巨大な切石は現在、島内以外では山口県博物館前庭・下松乗越クラブ・周南市文化会館前庭に設置されているが、山口博物館・乗越クラブの残石は、徳山上御弓丁出身の電気事業の父「矢嶋作郎」が明治期、私費で大津島から下松の自宅に運び入れたものである。徳山藩士であった矢嶋は、当時、毛利の紋章の入った石が野ざらしになっていることに耐えられなかったという。乗越クラブの残石は矢嶋邸から運び入れ、山口博物館の残石は矢嶋作郎の嗣子、専平が昭和5年に下松より搬送、寄贈した。

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大津島の大阪城残石

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大津島の大阪城残石 毛利家紋の「一〇」の刻印

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徳山駅新幹線口の階段に使われている。石を切り出した岩山。

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地下深くまで切り出した結果、池となる。

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切り出された巨大な花崗岩

 回天のホームページ


公開日:
最終更新日:2023/06/23

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