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徳山藩改易の遠因

毛利就圀

「万役山(まんにゃくやま)事件」は徳山藩三代藩主・元次と萩宗藩五代藩主・吉元の間で起こった大事件である。

正徳五年(1715)六月、宗家萩藩領、西久米村と徳山藩領の境界で萩藩領農民喜兵衛が松の木一本を伐採し、持ち帰ろうとしたことにより、徳山藩士伊沢里右衛門が喜兵衛の首をはねた事件である。

両藩双方の言い分が異なり、ついには幕府の裁定を求める事態となり、思いもかけない徳山藩改易となるのである。直接は松の木一本に起因した事件であるが、根本的な要因は徳山藩誕生当時にまで遡ることになる。

【遠因その一】

毛利輝元が関ヶ原の合戦に敗れ、百十二万石より三十六万石に減封された。そんな状況下で次男の就隆に徳山藩三万石を分地させたこと。

【遠因その二】

輝元は就隆の将来を長府藩主・秀元に託したい気持ちから秀元の長女松菊子を夫人として迎えさせたが、後、就隆は夫人と離縁した。

【遠因その三】

就隆は、徳山藩の表向きの石高四万十石を正直に届けようとした兄秀就に、四万五千石を届けるよう再三主張。秀就を困惑させた。

【遠因その四】

慶応二年(1866)、秀就は江戸城修理普請を命ぜられる。その経費が多額であるため、弟就隆に一部負担を交渉。就隆は参勤交代に出費が多く、余裕がないと断る。これにより宗藩に義絶を申し渡される。

【遠因その五】

秀就と就隆の生い立ちの相違。秀就は藩主として公的な環境に左右された生活。就隆は父・輝元の膝下にあり、愛情に包まれ気随気儘に成長。

【遠因その六】

二人の性格の相違。秀就は謹厳実直。就隆は自由奔放。

【遠因その七】

徳山藩を新設した際、萩藩宗家にもない馬場(桜馬場)を造ったこと。又、初代就隆および夫人の墓碑の上に宗家にもない立派な瓦葺きの屋根を設けたこと。

以上のような背景と複雑な人間関係から、宗家萩藩と徳山藩の間には不信感が生まれ、初代徳山藩主・就隆から約百年後の三代藩主・元次のときに不幸にも「万役山事件」が起こった。

元次は向学の士であったが、自身大変癇の強い性格であり、萩藩宗家五代を長府藩主吉元が相続した際、対抗心を禁じ得なかった。

宗家を恐れない元次と、宗家の権威に固執する吉元の間にはまことに微妙なものがあり、徳山、萩、長府との三家間に確執と不快の風情が、容易に拭い去れなかったことが後年、改易の問題を生ずる遠因となったのである。

≪註≫

徳山藩は思いもかけない改易という最も重い処分を受けることとなった。同じく改易となった赤穂藩の忠臣蔵として有名な『赤穂浪士の討ち入り』から12年後の出来事である。その後、奈古屋里人をはじめ家臣たちの血の滲むような御家再興運動が徳川幕府・幕閣の心を打ち、徳山藩再興が成った。当時、御家再興は異例なこと、家臣の忠義忠誠の心は武士道の鏡であり、徳山藩の誇りと言えよう。

兼﨑地橙孫新聞 平成25年7月20日号掲載


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