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入江石泉

名は靖、通称は弥源太、石泉また撫松と号す。文政8年(1825)6月旧徳山藩領内佐波郡富海村に生まれる。その家、累代同地の名族たり。性恬淡敦厚にして善く人と交わり、又能く他人の危難を救い、公共の事業に尽くせり。
居常深く仏教を信じ、篤実敬郷党その感化を受くという。夙に尊攘の大義を唱え、文久3年(1863)攘夷の勅下るや同志を糾合し、私費を投じて文武の道場を設け、以て非常に備える。藩これを褒賞す。
元治以降、時世漸く切迫するに及び、家事を弟弥太郎に譲りもっぱら身を国事に委ねて東西に奔走し、ついに正義派の累に座して、徳山浜崎の獄に幽囚せられ、翌年、さらに大津島に流謫せられ、既にして免されて家に帰り、慶応2年(1866)以後、京摂の間に潜行し上国の形勢を視察して、ひそかにこれを本藩に報告す。
明治2年(1869)これを中士格に列す。同3年(1870)、山口藩脱退の乱に鎮撫の功あり。同6年(1873)士を辞して、商に帰し、爾来優遊風月に親しみ、文墨を友として老を楽しみ、同29年(1896)1月28日富海の居に逝く。年72。これより先明治28年(1895)12月特旨従六位に叙せられ、旧藩主子爵毛利元功亦金を贈りて旧功を録す。石泉詩書を善くし、また篆刻に妙にて、遺著に快楽印書の模刻(明治7年刊)あり。(防長人物百年史より)

和歌の世界でも活躍。和歌の会『温知会』について。

『温知会』は旧藩主と旧士族の厚情を温めるため結成したもので、盛時は三百余名に及び、毎年一回毛利邸の大広間を開放して総会を開いた。創立は明治6年(1873)。旧藩主一族の東京移住により藩士及び家族の会となったが、毎年旧藩主が帰徳される際、総会を開いた。
明治21年(1888)、「徳山藩殉難七士の碑」が建立された時、毛利公爵家より墓前へ御使者が送られ、香花料の典があり福田寺にも使者が遣わされた。
このことがあってから、翌22年(1889)3月の彼岸の折に矢嶋作郎の発起で、殉難七士の遺跡巡りなるものが起こされ、矢嶋が施主となって香花を供えて各墓前に回向した。その際、入江石泉赤松連城など有志六、七名が随行した。
その後、年々続けて挙行され、明治24年(1891)、入江石泉、金子正煥、矢嶋作郎、赤松照憧らが再び、『温知会』を設立。そして、いつとはなく七士以外の他の墓へも参詣するようになり、同志も増え、大正8年(1919)に至って兼崎茂樹が『徳山名士墳墓掃苔録』」を発刊。その後、昭和になっては本城嘉守を中心にますます活発となり、「旧藩作事方跡」「本城三儒屋敷跡」「旧藩花畑練兵場跡」等多数の石碑を建立したものの、昭和21年(1946)華士族制度廃止とともに解散して祐綏講と改め、その後、規模が小さくなり消滅した。
現在、当時の石碑の二十余りが旧徳山市内に現存する。また、山崎隊墓地(永源山公園内)にある石灯篭は『温知会』による奉納である。

『徳山市史』の下記の事項に『入江石泉』の名前を見ることができる。

秩禄処分によって職を失った士族の救済のためにとられた明治政府による一連の政策『士族授産』。元士族の農・工・商業への転職の推進が各地でなされた。
徳山においても明治4年(1871)、養蚕製糸業を中心としてその活動を開始した。それに続き、会計処所属の制産方を家職に移管して制産社と改め、その組織を拡充して精蠟・製油を主軸とする広範な産業分野に進出していった。この改組と同時に、社長には遠藤貞一郎、副社長には谷城保左衛門(後礼蔵)、入江弥源太(後石泉)が就任した。

我が国における郵便事業は、明治4年(1871)に政府が飛脚制度を廃止して駅逓寮(後逓信省)を設置し、東京~大阪間に郵便を開始したことに始まる。徳山郵便取扱所は翌5年(1872)に佐渡町に開設された。明治8年(1875)に至って徳山郵便局と改めた。局長は初代加久谷孝三、二代目岩崎三四郎、三代目入江石泉、四代目入江彌作が勤めた。


公開日:
最終更新日:2024/03/12

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