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初代藩主 就隆

初代・毛利就隆

徳山毛利家蔵・周南市美術博物館寄託

初代藩主 毛利就隆 <1602-1679>

慶長7年(1602)9月3日輝元の二男として誕生。兄秀就は初代萩の宗藩藩主である。母は秀就と同じく側室児玉氏である。幼名を百助、また三次郎といった。姉とともに母に守られて伏見の藤森の邸にあったが、翌8年秋、父母に連れられ山口の寓居に帰る。その翌9年8月、母は急逝。輝元は特に就隆の保育に心を砕き、粟屋肥前らを守役につけ、常に輝元の膝下におき、就隆は苦労のない日々を送った。

就隆は萩城において15歳の春を迎えた。父の輝元は64歳であった。就隆は元服して通称日向と改めるが輝元の寵愛は成人しても変わらず、他の大名の養子として手放す気は毛頭なかった。かといって一万石前後の土地を与えて、同列の一門とし秀就の家来の立場におくことも忍び難く、結局、土地を分与し、幕府に請うて諸侯の地位を認めてもらうこと以外、満足すべき処遇は考え及ばなかったというのが父、輝元の内心であった。そうして、元和3年(1617)、就隆16歳の時、都濃郡において高三万石を分地。居館は下松に設け徳山藩が誕生した。

元和7年(1621)長府初代藩主毛利秀元の長女松菊子と結婚。秀元は一時輝元の養子になったこともあり、長府に分家後も、宗家のために尽力、輝元に代わって藩政初期の難局を処理した。元和8年(1622)12月28日就隆は江戸に於いて従五位下に叙し日向守に任じた。以後、寛永15年までの十数年間、江戸に滞留、その間文武の修業は大いに進み、特に馬術については都下に令名が高かった。寛永2年輝元が死去。同8年下松の新邸が竣工。同15年(1638)就隆は暇を願い国に帰り、初めて下松の新邸に入った。正保2年(1645)6月野上村に移住の願書を幕府に提出。その後許可される。参勤中の慶安3年(1650)6月帰国、新邸に入り、同9月野上を改め徳山と改称した。徳山藩の名前は正式にはこれをもって始まるのである。

その後、松菊子とは離縁し、中川吉左衛門重政の女と再婚。69歳にて中川氏の間に元賢が生まれ嫡子として幕府へ届ける。分封以来60余年の長きにわたり藩政を見たが、延宝7年(1679)8月8日78歳の高齢を以て江戸三田の藩邸に卒す。徳山大成寺に葬る。法名は発性院殿忽生本然大居士。(徳山市史上)


公開日:
最終更新日:2021/02/10

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