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興譲館第六代教授 浅見拙逸

<文政6年(1823)10月22日 ― 明治17年(1884.)1月18日 享年62歳>

名は修、字は子聿、通称を修次といった。嘉永4年(1851)8月13日に寮長を命ぜられ、助訓役取計となった。安政5年(1858)9月11日に訓導役に進み、文久3年(1863)に中小姓となり、世子元功の侍講に任ぜられた。元治元年(1864)10月10日七士の件に座して罪を得たが、慶応元年(1865)7月15日に再び訓導を命ぜられ、明治元年(1868)に助教役に進み、更に教授役座当分取計に任ぜられた。廃藩後は「山静塾」を開いて後進を指導した。拙逸は人となり辺幅を修めず時流に従わず、よく最後の学長として名をはずかしめなかった。遺著に「浜崎集」がある。(徳山市史上)

拙逸は浅見甚助正保の三男である。「上御弓丁の浅見」(本家)の三男栄三郎正欽が拙逸の姉常と結婚、正保の養嗣子となり、「三番丁の浅見」を名乗る。拙逸は初代「舞車の浅見」を名乗る。殉難七士の浅見安之丞 、児玉次郎彦の叔父にあたる。


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最終更新日:2024/03/17

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