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徳山藩館邸跡

徳山藩は、元和3年(1617)に毛利輝元の次男就隆が、兄秀就から都濃郡の3万石余りを分知されたことに始まる。

就隆は、初め館邸を下松に設けたが、慶安3年(1650)に海陸交通の要所である野上村に館を移し、同年野上を改めて徳山と称した。

その後徳山は、藩の改易・再興を経て、明治4年(1871)に山口藩に合併するまで、9代およそ220年にわたり城下町として繁栄を続けた。

徳山藩は、国持ちや城持ちの大名と異り館邸には堀や濠もなく「御館」といったが、天保7年(1836)に幕府から念願の「城主格」を許されると、館邸を「御城」と呼んだ。

(周南市教育委員会)

文化会館はこの由緒ある地に建てられ、その前庭に館邸の名残をとどめている。

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大阪城築城の際の残石


公開日:
最終更新日:2014/01/28

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徳山毛利家14代就慶氏舞台デビュー!

毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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