浅見安之丞屋敷跡・児玉次郎彦誕生之地
浅見安之丞屋敷跡
浅見安之丞は、浅見栄三郎の長男で号は煙渓。成人すると興譲館の句読師となり、大島流の指南役もつとめ、後に藩主元蕃の嗣子元功の学業指導にあたった。
文久元年(1861)に藩主に従って江戸に赴き、翌年京都に入り尊王攘夷のために活動した。元治元年(1864)8月12日俗論派に捕えられ、本城清、信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、慶応元年(1865)正月14日に俗論派によって新宮の海辺で絞殺された。時に33歳であった。
児玉次郎彦誕生之地
児玉次郎彦は、浅見栄三郎の二男厳之丞で児玉家を継ぎ、のちに次郎彦と改める。文久2年(1862)から周旋方として京都で活躍し、帰藩後は藩の大目付として藩政の重責を果たす。
その後、興譲館の助訓役兼寮長となり、尊王攘夷のために活動した。元治元年(1864)8月9日に河田佳蔵らが俗論派の富山源次郎を襲撃した際の一味とみられ、8月12日早暁に俗論派のために、自宅で暗殺された。時に23歳であった。
(周南市教育委員会)
現在、石碑は二番町にあった浅見家の家を解き、駐車場となった同地の一角にある。
<2011年7月素浪人撮影>
碑は駐車場入り口の左端
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最終更新日:2024/04/23