孝女阿米之碑と阿米像
お米は寛政3年(1791)徳山橋本町に生まれた。父は金左衛門といい、母は河内村の農家茂左衛門の娘であった。6歳のとき母親が亡くなったので父の足手まといとなるため、母親の実家に引き取られ養育された。享和2年(1802)12歳のとき父親が病にかかり、その看護のために帰宅した。天性純孝なお米は労苦をいとわず、父親が満足するのを自分の楽しみとし、人の真似できない数々のことを行い、父親の孝養にその一生をつくした。
このお米の話が藩主の耳に入り、徳山藩主より度々表彰され、褒美として米穀や恩賞を賜った。
父親に孝養を尽くすこと31年、お米が42歳の時、68歳にて父親はこの世を去った。
お米の哀慕啼哭は人々の感動するところであった。
後年お米は病にかかり、重くなるや近所の人々に多年の厚恩を、くり返し拝謝し、次に骨は父母の墓の傍らに埋めるよう頼み、後の世までも、父親に孝養を尽くさんとする気持ちがしのばれ孝養の至誠に胸うたれたのであった。嘉永5年(1852)3月4日お米は62歳で逝去した。法名を「慈順」と諡し遺骨は川端町徳応寺境内に葬られた。
(孝女阿米顕彰会)
河東町を南に下り、市内線の速玉町と接する交差点に祀られている。
公開日:
最終更新日:2021/02/11