旧藩台場跡
アメリカの黒船が浦賀にやって来てから、通商か、それとも攘夷かと、いろいろ論議が高くなり騒動しくなっていった。しかし結局、攘夷論が強く文久3年(1863)には最高潮に達し、そのため4月には、いよいよ5月10日を期して外国船打ち払いとの勅令が下された。この攘夷論を主唱したのが、わが長州藩であった。
そこで徳山藩では海上の防備のために大砲の鋳造を計画し、金具類の供出を命じ、また、海岸の熊野権現の森には砲台場が築造された。
この台場跡は、後には相撲場になっていたが、これより南へ100mのところに、高い土手を廻した円形の広い窪地として遺っていた。台場はこの外に那智・大津島にも構築されたとある。
この標石は、新幹線工事の時に古い標石が破損したので、地元の有志によって新しく建立されたものである。
(周南市教育委員会)
権現町の熊野神社の向かい側の歩道に建っている。
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最終更新日:2014/01/18