益田親施幽閉賜剣之地
益田氏は阿武郡須佐1万2千余石を領し、毛利氏の永代家老である。益田右衛門介親施は嘉永2年(1849)、家督をついで吉田松陰に兵学を学び、以後藩の要職につき藩主を助け藩政に尽力した。文久3年(1863)藩主の命を受けて上洛したが、「8月18日の政変」の後、三条実美等七卿を奉じて帰藩した。
やがて禁門の変で幕府軍に敗れ、その責任を問われることとなった長州藩は、その責任者として益田右衛門之介親施、国司信濃親相、福原越後元僴の三家老を切腹させ幕府に謝罪した。
益田親施は、この標石の位置からやや東よりにあった惣持院(明治4年廃寺)に幽閉され、元治元年(1864)11月11日夜切腹を命じられた。ときに32才であった。
(周南市教育委員会)
石碑は毛利マンションの北西角の生垣に建っている。毛利マンションは徳山藩の中心的な役所(御蔵本)があった所で、その南側に残る石垣・土塁は貴重な遺構である。
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最終更新日:2014/08/17