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井上唯一屋敷跡

井上唯一は、幼名を彦太郎と称し、後に和彦と改めた。若い時から武芸の技をみがくとともに、和歌・連歌にもすぐれていた。若くして勤王の志が大変厚く、幕末には騎兵隊の一員としても活躍した。文久3年(1863)の外国船の下関砲撃の際には、後の長州藩主元徳に従って出陣し、七卿都落ちの時にはその護衛の役をつとめた。幕末における徳山藩の内訌(うちわもめ)の際には、「正義派」の一員として活躍したために「俗論派」に捕えられて浜崎の獄舎につながれ、元治元年(1864)10月24日に処刑された。時に23才であった。藩論回復後、徳山藩主元蕃は殉難七士の家を復興し、その遺族を優遇した。

(周南市教育委員会)

周南市役所の北方、弥生町に建っている。

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公開日:
最終更新日:2024/04/11

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