和田利右衛門の石燈篭
権現町の熊野神社に、「和田利右エ門平盛房」と書かれた石燈篭が建っている。
『新南陽市の民話と伝説』によると
和田利右衛門は、徳山藩士で一五石取の持弓であった。
この利右衛門が寄進した石造物は、燈篭、鳥居、水船、宝塔等多様であり、東は高森から西は山口まで、山口県内30ヶ所以上の神社やお寺に及んでいる。また、この寄進は文政二年(1819)から文久二年(1862)まで、延々44年間にも亘って続けられた。
たかだか一五石取の下級武士が、莫大な費用のかかるこのような寄進をどのような訳あって行ったのかについては、次のような物語が伝わっている。
「ある夜、虚無僧姿の旅人が一夜の宿を乞うたために泊めたが、この男が大金を持っているのに目がくらみ、利右衛門は男を殺して金を奪い、死体を庭に埋めた。
以来、屋敷からは真夜中、異様なうめき声が聞こえ、次々とこの家に不幸が続き始めて、妻は発狂し、ついに狂い死にした。そして子供は疫病で死に、虚無僧を埋めた庭は雨が降っても不思議に土が濡れなかったという。
このうわさが殿様の耳に入り、利右衛門は免職となり、自宅に閉じこもったが、良心の痛みに耐えかねて、高僧を訪ね自分の罪と苦悩を打ち明けた。すると、高僧は私財を投げ出して、神社やお寺に寄進を続ければ、気も晴れて救われるだろうと教え、それによって利右衛門は前非を悔い、次々に寄進を続けたという。」
「和田利右衛門の石燈篭」は、一時の過ちとは言え、一生を懺悔に生きた人間の所産である。それはまたそれで尊い生涯であったとは言えまいか。
(徳山地方郷土史研究第9号清木素「和田利右衛門の寄進石造物の追跡」より)
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最終更新日:2024/03/04