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本城清誕生地・江村彦之進屋敷跡

本城清、号を素堂という。江村忠韶の第2子で江村家より本城の伯父(実母の兄)の養子となる。徳山藩興譲館第五代教授。親子三代による本城三儒家としても有名。元治元年(1864)の俗論派との争いの際、浅見安之丞信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、同2年、権力を持った俗論派により徳山の新宮の海辺に連れ出され絞殺される。牢獄で妻澄江、長男幾馬に遺書を残している。殺害された”殉難七士”の石碑は児玉神社に祀られ、自身は舞車の大成寺墓地に眠る。貴族院議員楫取素彦による墓碑が、墓石全面に刻まれている。41歳没。

江村彦之進は江村忠韶の第4子で本城清の弟になる。号は風月。弱冠の頃「徳山略記」を編集して藩主に呈した。黒船が浦賀に来たときは、しばしばその対策を提言、藩主に認められ、学館の句読師になる。また、安積艮斎の門に学び、塾長となる。兄、清と九州他諸藩を遊歴し明倫館に入り国事を論じた。

藩主元蕃に従い入京。学抜きんでて興譲館訓導役をつとめた。藩政に参じたが、元治元年8月、藩主の命と偽り、現桜馬場東端に連れ出され暗殺された。時に33歳であった。

石碑は、大成寺前の細い一方通行の道を西に(車は逆走になるので禁止)、大成寺橋を渡り、御弓丁から一番丁にぬけたマンションの一角に建っている。

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道の突き当りが大成寺である。

道をまっすぐ行くと突き当りが大成寺

 

 


公開日:
最終更新日:2024/03/17

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