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鳴鳳館第五代教授 小川乾山

<文化6年(1809)7月23日 ― 安政4年(1857)2月 享年49>

徳山に生れ、名は貞、また謙、通称を道平といった。その父瓊斉は本城紫厳に師事し、のち江戸に遊び、服部南郭に学んだ人である。

乾山は天保5年以来、御蔵本両人役、御世帯方都合役座取計、江戸勘定役、作事奉行、御隠居御家督御用掛、御居間御納戸御用向取計、評定役、御世帯掛、御蜜用御用向取計などの諸役に歴任した。その間、天保9年7月に鳴鳳館の訓導役を拝命し、同14年12月、本城太華の後を受けて教授方取計を命ぜられ、嘉永3年9月に及んだ。乾山は学館の職と政府の吏務とを兼ねて、その功労は極めて顕著なものがあった。当時、財政は一般に窮乏を告げたが、乾山の計画よろしきを得て負債を整理し、節約の実を上げ、文教に尽くし、賞賜数度に及んだ。しかし、喬木は風をうけること強しの例にもれず、たまたま嘉永3年(1850)8月7日、領内の大風害にあたり救済の準備がなかったことの責めを負わされ、家名断絶の上蟄居を命ぜられた。その後、安政3年(1856)5月に罪を許されたが、翌4年2月、49歳をもって病没した。

著に「四書困中録」7巻、「毛詩考刪補」10巻、「古席翼刪補」4巻、「四書相長録」4巻、「居業雑稿」7巻、「四部笏録」4巻、「座右小説」2巻、「乾山詩文稿」2巻、「乾々斎漫筆」などがある。その学風はかつて江戸勤務中に佐藤一斎に学んだ関係から陽明学に傾き、従来の徂徠学や、熊本藩学の影響を改めようとするに至った。同時代に飯田竹塢、玉井修蔵らがいた。共に一斎の門人で陽明学派である吉村秋陽に学び、特に竹塢は直接に一斎にも師事した。乾山もかつて一斎を介して、秋陽を徳山に招聘しようとしたことがあったが、事情があって果たせなかったといわれている。乾山が嘉永の風災で責めを負うに至ったのは、一つは年少気鋭をもって藩の要路に列し、その才にまかせて振る舞ったためでもあろうが、一面また陽明学の台頭に対する反感も見逃すことが出来ないようである。(徳山市史上)


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最終更新日:2024/04/06

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