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鳴鳳館初代教授 本城紫巌

<元文2年(1737)9月17日 ― 享和3年(1803)10月4日 享年67歳>

16、7歳の頃に、既に天文、地誌、諸子、百家などあらゆる書を読破したという。宝暦8年(1758)2月萩の明倫館に学び山根華陽に師事。明和2年(1765)に江戸に出て滝鶴台の門に入った。かたわら紀平洲らの諸名家にも従学。同5年にはすべての勤務を免ぜられ、文学専門として子弟の教育に従った。翌6年に徳山に帰り、御書物方兼御部屋方の師範役を命ぜられ、余暇をもって藩の子弟を教育。これよりその名声は次第に高くなり、遠く九州から藪孤山、亀井南冥らも来訪するようになった。天明5年(1785)に鳴鳳館が設立されるや、紫巌は教授にあたり十有余年、育英をもって念とした。性質純真、人に媚びることなく、明利を求めず、詩に巧みに、書を善くした。徳山藩がその教育において大藩と相並ぶほどになったのは、主として紫巌の功績である。寛政5年(1798)に多年教授の任にあたった功で加増を受けた。その門人には青木葵園、国冨嶺南、坂仲礼、谷子信、杉東山ら多士済々である。紫巌の著書に「紫巌先生遺稿」がある。

鳴鳳館第二代教授役藍泉は紫巌の徳を歌って、次のように称えた。

徳府の夫子紫巌翁、磊落縦横気は虹の如し、少々すでに向う千秋の業、
西は覇城に遊び東は江東、東西跋渉す幾千里、師を追い道を問い道もまた通ず、
遺緒なおつぐ蘐園の業、道述改めず鄒魯の風、絃誦戸庭の際を出でずして、
風化はすでに都府の中に満てり、文騒ともに誉髦の士に競い、
書筴偏に五尺の童に挟む、府下の文風今一変せり、草創誰か夫子の功に若かん
(原文漢詩)<徳山市史上>
本城三儒家墓碑本城三儒家 右より本城太華、本城紫巌、本城素堂、(一番左は本城幾馬)

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本城紫巌翁遺像 本城太華筆 (周南市中央図書館蔵)

本城紫厳

 本城紫巌書 (周南市中央図書館蔵)

 


公開日:
最終更新日:2024/03/17

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